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2012年3月17日 (土)

自由主義とはなにか

流山児祥のオフィシャルブログ3/16付けで気になったことを一つだけ。
/その後、吉本さんは「時代と寝る思想家」へと突き進んでゆく。ま、日本全体が浮かれてゆくのだが。全てが、弱肉強食の新自由主義へと雪崩を打って進んでゆく。情報帝国の時代へと。ペラペラの高度消費社会を評価した80年代、吉本さんは、たけしを評価し、コム・デ・ギャルソンをまとって颯爽と登場した。「あの」あたりから、オレにはもう、吉本さんなんてどーでもいいやになってしまった。/
当人がどうでもいいのだからしょうがナイが、「新自由主義」というコトバが何を意味するのかは、私にはワカラナイ。そも、「自由主義」というのはアメリカ合衆国プロテスタント国家の専売特許であって、この場合の「自由」というのは「神の下に自由である」ことを意味している。つまり合衆国は神の国であり、国民はその僕であるから、神に逆らわぬ限りは「自由」だということだ。この「自由」は「罪の意識をもたなくてイイ」というところにまで発展する。アメリカ国民が、ヒロシマ・ナガサキにおける無辜の民の惨殺において、殆ど罪の意識を持っていないのはそこに根拠を持つ。アメリカは神の国だからこそ赦されるのだ。この路線をいくら拡張しても、単一宗教のナイ(天皇制がそうであったときは、システムとしては、日本国民は天皇の僕であり、天皇には一切の責任がナイというヒエラルキーをもっていて、これはアメリカ・プロテスタンティズムとのアナロジーになる。大西巨人『神聖喜劇』のテーマはこれだ)日本に自由主義などというものがあるワケがナイ。単純にコトバのニュアンスを享受、吹聴しているのが日本国民ということになる。
/ヴ・ナロード!常に「大衆」と共に・・・・が、本当に吉本さんは「大衆」と共にいたのだろうか?反核異論以降3・11まで吉本さんのコトバは「大衆」に届いていたのだろうか?んなことなどどーでもいいか・・・/
当人がどうでもいいのだから、これもしょうがナイが、『反核異論』『ハイ・イメージ論』辺りから、吉本シンパの吉本離れが始まったのはたしかなことだ。コム・デ・ギャルソンや「時代と寝る」に関しては、埴谷雄高との論争で決着はついている。要点は「大衆」を理論にどう繰り入れていくか。これは吉本さんの情況論のかなめだったことを読み取れたかどうかだと、私は考えている。大衆が浮かれていたのなら、浮かれている大衆の現在を諫める、たしなめる、訓戒するのではなく、その「いま」に思想を対峙させるしか、思想の思想たる所以はナイ。

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