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2012年3月 9日 (金)

続・恋愛的演劇論・3

以前にも書いたが、釈迦や達磨、そうしてイエス・キリストもまた、地球という天体が球体をしていて、自転し太陽の周囲を公転していたという宇宙の姿(様相)には無知だった。キリスト教の宇宙図はアリストテレスの描いたものだ。仏教の世界観、宇宙観は、いわゆる浄土の構造で、阿弥陀如来(西方浄土)や薬師寺如来(浄瑠璃浄土)など、六人の仏の持つ仏国土が宇宙を構成していたのに、釈迦如来が加わって七人となる。未来にはこれに弥勒菩薩も加わり、時間軸でみると仏は増えていき、どうように空間軸でも、仏世界は増大していく。アリストテレスの宇宙図は否定されたが、仏教世界はそれを「喩」として観る、あるいは私たちの宇宙観とは違う形態としての宇宙観の存在として、否定されているものではナイ。このように、釈尊や達磨の教えは、現在から科学的に観る限り実証不可能とでいうものだし、否定されるべきものであるのに、いまだにその教え(思想)は脈々と受け継がれ伝承されている。これは、その教義、思想、コトバが、ソシュール言語学の提起した「通時性(時代をつらぬいて存在する言語)」と「共時性(その時代に特有の言語)」を有しているとして理解出来る。私の稚拙な考えによれば、ミシェル・フーコーの歴史観はここにヒントを得ているもので、彼自身が「私は構造主義者ではナイ」と述べているのは、つまり歴史に対する観方が従来の歴史主義者と違うのだ。フーコーの歴史観では、歴史の外観は地層のように重なっている。これはコンピュータのアルゴリズムやメモリーの中心となる数ビット1枚のディスクを何枚も重ねたときのバイト数の数え方と類似しているといってもあながち、マチガイではナイ。この数枚のディスクをフーコーは「エピステーメー」と称して、その時代を席巻するコトバを「ディスクール」と称した。たとえば、「狂気」や「疾患」がそれぞれの時代でどう扱われたか。「権力」と人間がどう関係したか。現在は人間にとってどういう時代か、だ。これらからいえることは、哲学思想には、共時性とともに通時性が必要だということだ。釈尊のコトバはいまも生きているのだから。これを逆に転じると、100年先の未来の人類は、いまの私たちの考えを「彼らは宇宙がコレコレだったことを知らなかった」というかも知れない。
一昨日のことだ。近隣の中学校の卒業式があった。校庭に集合した卒業生たちが、順に校門から出て行く。後輩たちのブラスバンドがそれを送る。ちょうど頃良く見渡せる位置にあるスラムアパートから、買い物帰りの私は、部屋に入ることもせず、それをじっと観ていた。観ていて、目頭が熱くなり、涙が流れた。ブラスバンドの音が、その、けして美しいとはいえない、しかしコヒーレンスな音が、ただ一所懸命に振動して、精一杯に鳴り響く。その中を特に感慨もなさそうに、それぞれの16歳が行進するではなく流れるように足早に校門を出て行く。彼らはこれから次の高校時代に向かう。私もそうだったのだなあと、ただ、そういう思いだけで観ていたのだが、一粒二粒、涙は流れた。何の涙だったのだろうか。私はキザってカッコつけて文学を書こうとしているのではナイ。そのシーンは、やはり「劇」なのではないかと思ったのだ。そのことを知人に話したら、そんなことでよく泣くよな、あんたも歳とったねえ、といわれた。なるほど、そうだ。その知人がもしその光景を観ていても、ただの卒業式の風景に終わったかも知れない。そのとき、その知人と私に「みえるもの」は一緒だ。しかし「観ているもの」は違う。同じではナイ。現実には、単なる卒業式のファイナルの風景にしか過ぎない。私はその風景を「劇」として「虚構化」している。自ら創った「虚構」に涙している。ゆんべは、SLOFT/Nの活動の一環としての「えんげきの『え』」の一回目がユースクエアで行われた。十数名の参加者は、電球とグロスターターで作った「火入れ」を焚き火にみたて、薄闇の中、その虚構の焚き火を囲んだ。そこで話したのは、「えんげきのはじまり」だ。私たちは、えんげきのはじまりを、原始人類にまで遡り、氷河期に穴居する僅かに生き残ったホモ・サピエンスとなって、「えんげきが、なぜ、どんなふうに」始まったのかを、少しだけ体験してみた。これは、次回もつづけられる。その当時、いまから10万年前のホモ・サピエンスたちのことを、私たちは「あの頃はおそらく」と話すことが出来る。彼らは何に涙したのか、何に笑ったのか、何を恐れ、それとどう闘ったのか。そうしてソノ名残は、現在の演劇の何処に遺されているのか。演劇論はここから始まらなければならない。

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