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2012年3月25日 (日)

続・恋愛的演劇論(実践編)・2

このところ殆ど一日おきに大阪方面に出向いている。昨日は『光をあつめて』(高橋恵・脚本、深津篤史・演出)をドーンセンターで観劇。いつも書くように私はけしていい観客ではナイので、内容に関しての感想は書かない。気になったのはこのホールの残響秒数が長いため、役者のせりふが早くなるにつれ(たとえば大阪弁なんかは早いのだが)エッジがぼけて、聞き取りにくくなることだ。これは、ホンのせいでも演出のせいでもナイ。大阪にはこの程度のホールしかナイのを、同業者に対して同情するだけだ。
本編は、大阪が生んだ女性写真家のパイオニア、山沢栄子の半生記だ。私が興味を覚えたのはあるシーン。大戦中の疎開先で、ヒロイン山沢栄子が、当時の新劇女優(築地小劇場の女優)山本安英のポートレートの仕事をするところ。ここで、山沢は山本に独り芝居を演じてもらってシャッターチャンスを待つ。いまなら、デジタルでフィルム代も要らず、連写という秒数枚の写真が撮れるので、シャッターチャンスはさほど緊張感を必要とするものではナイ。しかし、舞台写真という分野は別だ。連写のシャッター音が気になるので本番では撮らない。ゲネプロでたいていは撮るのだが、それでも、ほんものの写真家は、連写しない。どうように音が邪魔になるからという配慮による。ところで、山沢はそのシャッターチャンスを待つ。長時間をかけて1枚撮る。さて、そのシャッターチャンスというものについてだが、たとえば、爪先をぶつけて脳が痛みを感じるのにおおよそ0,5秒から1秒かかる。同じように、ここ、というシャッターチャンスにシャッターをきる場合においては、視覚が判断して指先が呼応するまで0,2秒ほどの遅延が起きる。つまり、写真家は撮りたいものの映像を0,2秒前に予測していなければならないことになる。これはたいていは写真家の経験値や勘の善し悪しとされてきた。しかし、私たちが考えたように、ここに加速度という概念を導入するとどうなるだろう。対象は写されるモデルだ。表現する主体は写真家だ。私たちが気づきにくいのは、写真というものが、何か実体を写しているのではナイかという錯覚だ。写真は写真家によって表現された「虚構」だ。このことを最初に述べたのは、荒木経惟さんだ。写真は「現実」を撮るのではナイ。あくまで写真家によって表現された「現実」の虚構だ。さて、この0,2秒という遅延を縮めるために、表現者は加速度を手に入れるとする。ここで、加速度について言及しておくなら、加速度というのは、ある時間当たりの速度の変化をいう。(速度はベクトルとして捉えられるので、加速度も同様にベクトルとなる。従って加速度はベクトルとして平行四辺形のカタチに合成や分解ができる。力や速度の場合と同様だ。つまり、向きを変え、速さを変えることが出来る)何やら難しそうだが、等速直線運動をしている物体の加速度を求める数式は単純なものだ。初速をAとして、加速度をVとすると、T(時間)における加速度はV=Vo+AT だ。
表現者は表現のうちに「加速度」を導入している、というより、表現というものはある運動量(対象)に対する加速度(的なもの)だということが出来る。前述したようにベクトルの合成でみると、表現は対象に向きと速度の運動量を与えるものといえるが、もちろん、対象それ自体が変化させられているワケではナイので、表現者(主体)が対象をそのように観測したものを、表現したものということになる。この加速度が表現者の心的表出だということはいうまでもナイ。

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