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2012年3月26日 (月)

続・恋愛的演劇論(実践編)・4

ここまで私たちが進んできて得られたことをまとめて書くと以下のようになる。
「演技表現とは、空間性としては形態(形象)表出と心象表出によってつくられる空間座標系であり、時間性としては形態表出と心象表出を関数として加速度まで微分したベクトル(向きと速度)合成としての時間性である」
ひとつ、例示する。能楽の所作において、一挙手一投足が決められ、表情も面によって決められているということは能楽師(仕手)に対する[束縛を意味しない]。それら所作は、一つの[完成としての到達]として創られている。それらは、完成されるまでに無限の年月を要するが、無限の先に完成を置くということによって、常に能楽師の修練を求めることになる。つまり[極限]として設定されている。能楽師は常にこの[極限]を演じることになる。これが、六百年の長きにわたって伝承されたる能楽の所以だ。
私のおつむがもちっとよければ、このような旋回するような展開ではナイ、理路整然とした論理、理論が組み立てられたろうが、ここらあたりが、私なりの精一杯のところだ。論理のワカリニクサは、私の中での咀嚼の不足を物語っているのだろうが、私自身がワカラズに書いているということではまったく、ナイ。なんとか、読者諸氏に、この稚拙なる思考を伝えんとして、出来るだけアナログで、inspirationによる感覚や、academicな用語を用いずに試みているが、それはつまり、いま若くして演劇の道程にある人々に理解を促したいために他ならない。
さて、ここで、一つ命題を設ける。
「それら表現(ゆらぎ)は、観客の受動的、能動的な「ゆらぎ」に干渉する」
この帰納命題がなければ、演技や演劇は、それを行使するものの対自的なところにとどまり、観客(観手)の存在意義や、演劇そのものの存在価値が霧消してしまう。この辺りは、「現実」と「虚構」の問題、あるいは、うつ病の問題ともリンクしてくる可能性を秘めていると思われる。紅孔雀の地図と鍵が必要とされる、紅孔雀の秘宝は、空の果て、蒼き潮の海の底、深き眠りに包まれて、いまもこの世にあるという。

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