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2012年3月 7日 (水)

如是想解・43

42 次なる謎は
マタニティー・ブルーが、母体という自然(個体-固有の自然)と、進化論的に観た自然というものとの齟齬(すげえ漢字だな。意味は、かみ合わないとか、くい違うとか、ずれがあるということですが)にあるのではナイか、というところまでで、いまの私には論を進める自信はナイ。(とはいえ、ここまでにしておくつもりは毛頭ナイ)。ここで探偵は②に論を進めることにしたい。/②の内因性は「内部からひとりでに」起こるもので、①や③には該当しないものをいうのだが、「内部からひとりでに」というのは、うつ病にあたかも人格、物象を付与した感が否めない。もし、これを認めるなら、「外部の何かがとり憑いて」という拝み屋の対象ともなる理由をいうことも出来る。およそ、このレベルにおいては問題にならない。とはいえ、これはほんとうは問題にしなければならないものだ。そうして、現在のうつ病治療薬も、多くこの内因性の生ずる脳内物質(神経伝達物質)の制御を主な目的としている。いわゆるセロトニン、ノルアドレリンの再取り込みを防ぎ、その物質を増加させることによる制御だ。/と、前述した。「内部からひとりでに」というのは、没個的なもので、まったく固有のものだ。しかし、およそ、そういうものが存在するとすれば、独語(独り言)と似た世界を想定しなくてはならない。いわゆる完全に即時的なものだ。ここで、ちょっと回り道になるかも知れないが、西洋の哲学史をかなり大雑把に順繰り観ていくと、といっても、ギリシャ哲学まで遡っていてもしょうがナイので、たとえばヘーゲルは、この世界と個人というのはつねに関係しあって運動をつづけていくという弁証法を説いた。ところが、哲学史などを読むと、まずキェルケゴールなどがこれに反撥したことになっている。「世界のことより、自分自身のことだ」、と、彼は主張したワケだ。これが実存主義という哲学思想の初まりになっている。しかし、キェルケゴールは世界をないがしろにしたワケではナイ。無視したワケではナイ。ちゃんと「絶望の絶望」というコトバで世界と自己の関係を述べている。これはニーチェのいう「虚無」と紙一重でよく似ている。違うのは、キェルケゴールが有神論者(キリスト者)だったのに対してニーチェは高らかに「神は死んだ」と宣言したことだ。(つまり、ニーチェは無神論者ではナイ)。キェルケゴールのいう「絶望」というのは、この世界に対する絶望をいっている。自己に対する絶望をいっているのではナイ。簡単にいえば事なかれで、刹那的、享楽的に生きるというのは、神に対する絶望を意味するワケで、そういう者こそがほんとうの絶望的な人間だというのだ。従ってそういう絶望の絶望を知ってこそ、個人のほんとうの生き方が始まるということだ。だから、キェルケゴールは世界と自己は神によってつながっているというカタチで世界を認知している。これがハイデガーになると、次第に世界(ここでは歴史ということになる)と自己(ハイデガーのいう現存在)は、自己が意識したときにだけ、現れるというふうになる。つまり、歴史に対する関与、干渉というものが、自己から歴史へ向かったときと、歴史が自己に向かったときにのみ、生じてくるということになる。現象学のフッサールにおいては、歴史という客観は消される。存在はするのだが、それはある妥当な産物としてということだ。つまりそれぞれの固有の歴史の集合が全体の歴史だというふうにとってもイイようだ。だが、ここで、やっかいものが登場するサルトルだ。彼も実存主義哲学を論じて登場したのだが、自ら「実存主義という主義はナイ。単に人間が本質ではなく実存的存在であるというに過ぎない」と提起して、自らはマルクス主義者となり、この現代世界の歴史は、個人の関与によって変えられると主張した。それがあの有名なアンガージュマン(積極的に未来を変えよう)だ。つまり「革命」だ。しかし、それに反論した文学者がいる。アルベール・カミュだ。彼は哲学者ではナイが、サルトルのいう共産主義社会への歴史転換については反撥した。ここで、カミュ-サルトル論争というものが生じた。カミュは、革命の暴力性を非人道的だと認めない。それに対してサルトルは資本主義の搾取こそ暴力だと主張して譲らない。打率2割5分くらいでサクサクというと、こういうことになる。ここで問題を絞れば、「歴史」と「個人」とは、どんなふうに関わりを持っている(持てる)のだろうか、ということだ。つまり「内部からひとりでに」というのが通用するのかどうかということだ。

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