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2012年3月 7日 (水)

虚構の真実

映画『果てなき路』のエンドロールの最後に「これは真実である」という一行が出てくる。字幕訳者がどういうふうに訳したのかはワカラナイが、この場合の真実というのは「これはホントウにあった話である」という程度のものだ。いまの時代最も胡散臭いのが、この「ホントウにあった」というコトバだというくらいのことは、子供でもうっすらと感じてはいるはずだ。その証拠にホラー映画の宣伝文句にはこのコトバが最も多用される。では、「ホントウにあった」とは何をどう示すのだろうか。フクシマ原発事故はほんとうにあった、という場合、確かにそれはあった。しかし、ホントウにどういうふうにあったのかは、私たちは報道で知る以上のことは知り得ない。先述したが、私にとっては、水がぶっかけられた、というのが唯一のホントウだ。牛乳にセシウムが検出されて、飲めなくなったというのはホントウか。水道水が飲めなくなったというのはホントウか。これは専門家で意見が分かれているところだが、政治的は判断でしかナイ。「何かコトが起こってからとやかくいわれたくはナイ」という事泣かれ主義が現在の日本の政治だからだ。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では鉄道の乗客の少女がジョバンニに「ほんとうのほんとうの神さま」と表現する場面がある。この小説には、なんだか何度も「ほんとう」というコトバが出てきた記憶がある。私たちは日常的にも「ほんとのところはどうなの」などと、これを用いる。「ほんとう」、私たちが常識として知っていることを「ほんとう」は覆す。最近のテレビバラエティはこの手のものばかりだ(テレビはまったく観ていないのだが、月に一度、実家に帰って、母親が観ている番組を付き合って観ると、たいていいつも同じだから)。しかし、世間の常識を「ほんとう」で覆すのは難しい。世間の常識が慣習である場合はなおさらだ。『贈与交換』も同様に『贈与』だけを受け取られると、貰ったほうが心苦しいだけになる。「お返しするものが私にはナイ」という非対等を産む。『交換』は見返りではナイのだが、つまり『贈与』そのものがすでに贈与した者にとっての「資本」となるのだが、贈られたほうは、何か自身が贈与された相手に対して「資本」とならねばいけないのかなと、強迫観念すら感じてしまう。これは「ほんとう」のことではナイ。贈与した側は、けして「返せ」といっているのではナイのだ。繰り返していうが、贈与そのものが資本と等号で結ばれているのだ。しかし、こうしたことも『贈与交換』の問題の一つとして答えていかねばならないことだ。私たちはあまりに資本主義とか、資本制社会とか、そういうコトバで、資本を「ほんとう」の姿ではナイままに経済制度を常識の中に、慣習の中に刷り込まれて(組み込まれて)いる。かの命題も演繹していいなおせば、「私は(或いは、私に起こることは)世界からの贈与(インシデジタル・ギフト)なのだから、私は世界に対して表現するという営為を以て、それに応える」となる。このインシデンタル、偶然を考えるのに『散逸構造』は一つの方法となるだろうが、いまのところ、『散逸構造』では身体器官を説明出来ても、心的な現象のでどころが、奈辺にあるのか、私には定義できるほどにはワカッテいない。ゆらぎの確率でヒトが出来たとしても、ココロは確率として生じるものとは思えない。考えること、まさにこれこそが「果てなき路」だとカッコよくいっておこう。

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