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2012年3月 8日 (木)

如是想解・44

43 謎はつづく
私たちを悩ませる「歴史」というものの感覚はいつもこうだ。まず個人史というものがある。固有の歴史だ。それとは別に「歴史」というものがある。私の個人史はその歴史に巻き込まれるだけで、私は歴史をどうすることも出来ない。ほんとうは、私という個人を含めて歴史はあるはずなのだが、それとこれとは、違ったふうに進んでいるという感覚だ。いったいその感覚は何処から生ずるのだろうか。また、何故、そういう感覚に陥るのだろうか。もし、うつ病を「内部からひとりでに」生ずるという②の診断方法(発症要因)を信ずるとすれば、前述したように「外部からひとりでに」というベクトルをいうことも可能でなければならない。この外部というのは、個人(固有)史ではナイのだから、流れゆく歴史ということになる。この問題はけっこう難題のようだ。マルクスやフーコーはその哲学的思考の主題に「歴史」を導入した。マルクスでいうなら、通俗的だが「階級闘争」だし、フーコーでいうなら、「ディスクール(言説・・・その時代に波及、流布され用いられた言語、拙論))」や「エピステーメー(その時代を支配、席巻した、独自の法則、理論)」であり、二人とも「権力」というものを扱っているのだが、あるいは接近し、あるいは遠のく。例を挙げればマルクスの権力思想である「階級闘争」は、フーコーにとっては、その時代に存在した「エピステーメ」でしかない。(この辺りは、ソシュールの言語学の影響といわれているし、私も、そこにフーコーはヒントは得ているとは思う)。
この個人(固有)史と、歴史(普遍的・一般的、歴史)の並行感覚は、おそらく私たちが社会科の授業で歴史を習ったときにも、敏感な者なら抱いただろうと思う。これがなぜ難題なのかというと、科学(物理学・力学・進化学・化学、et cetera)において歴史を扱う場合には、エントロピーという「時間の矢」の存在における不可逆的な時間の流れとして扱わねばなナイ(注釈を入れておけば、エントロピーというのは物質のことではナイ。よくエントロピーの増大などといわれると、何やらそれがある種の物質のように思えてしまうが、簡便にいえば、質が量へと転化するエネルギー現象のことで、ここでは時間は不可逆、つまり一定方向にしか流れないので、「時間の矢」は光陰矢の如しの矢と同意に例えられている。「光陰」というのは「時間」の別名だ。質が量へというのは、100円ライターで火をつけると、中のガスである質は炎の熱という量に変わるということだ)。しかし、哲学や思想というもの、あるいは表現というものは、その限りではナイ。思考は幾らでも過去にもどることが出来るし、ハイデガーやキェルケゴールのいう「反復」などの概念は、ヘーゲルのいう「反省」という運動とも似て、ひとは過去から学ぶということが出来るし、逆にいえばそういう存在が人間だ。いっときは興隆を極めたアングラ演劇とマスコミにはいわれた演劇は、いま新・新劇(というんだろうか)の台頭に取って代わられている。つまり「反動」というものがある。人間は、何度でも同じ過ちを繰り返すのと同意だ。ここでは「時間の矢」はどっちに向いても飛ぶ可逆的なものになる。②における「内部からひとりでに」起きる疾病としてうつ病を捉えるならば、「内部へとひとりでに」もどっていくものとして捉えねばならないし、たしかに、うつ病にはそういう面があるのは事実だ。身体的症状も、いっとき我慢すれば、治まる。
単独では世間(歴史)に影響を与えられないのなら、「団結」すればイイのだろうか。集団としての力で何とかなるのだろうか。たしかにナチズムは、ヒトラーという単独者が始めて、集団となり団結して、歴史となった。しかし、このコヒーレンス(波動が干渉する度合い、つまりエネルギーの増大の目安となるもの)は正しかったか。この波の流れに乗っていくという個人の歴史参加は、個人史にどう影響を及ぼすのか。うつ病の発症②や、あるいは演劇の集団性を考える場合には、ここまで拡張した謎に応えうる答が必要になってくる。

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