続・恋愛的演劇論・10
メモだけして、書き残したことを、まとめて書いておく。
○システムやらメソッドやら、演技論やらワークショプの方法論やら、にはいつも観客は置き去り(蚊帳の外)にされているような感じがする。演技は観客を何処かに連れ去っていかねばならないのに。
○「生産=消費」というマルクスの経済学の土台と、同じマルクスの自然哲学である「表出=疎外」を等価原理として扱っていいのだろうか。それよりも、熱力学の第一法則と第二法則として考えたほうがイイのではナイか。つまり、固定的でナイにせよ、その何れかは「質」であり、いずれかは「量」として。で、あるならば、コヒーレンスとして捉えなおすことが出来るのではナイか。マルクスもエピクロスを評価しているではナイか。
○スタニスラフスキーのいう「超課題」と「貫通行動(一環した論理行動)」は、いくら読んでもワカラナイ。幾つかネットで検索したが、「これだな」という解説をしているのはなかった。ストラスバーグはのっけから、こいつは棄てている。そこから類推して、これらの概念は、ソビエト-ロシアの歴史的芸術論問題にしか過ぎないのではナイかと、漠然と、そう感じている。ちょうど、革命前後だったからな。
○「資本」というのは「剰余価値」の搾取から生じたものではナイ。資本をそう考えること自体が誤り(非人間的)であるという論理の展開が『資本論』ではナイのか。
○これだけはいえる。演劇を堕落させたのは観客だ。彼らはカラオケのように演劇に群がり、舞台に上がり始めた。またそれらを演劇の普及だと勘違いした文化屋の猿たちも同罪なのは当然のことだ。私たちは猿ではナイ。ホモ・サピエンスという人類だ。演劇は、永い氷河期を、千人に満たないホモ・サピエンスが生き延びた希望から産まれたものだ。彼らは、「喜怒哀楽」を「意識的」に表してみせることが出来たのだ。「喜怒哀楽」を「意識的」に表してみせること。これ以外に演劇の基本となる定義などはナイ。
○「現実はそうはイカナイ」というコトバがあるのなら、虚構というのはある「理想」ということになる。
○こんなことを毎晩考える、毎日書き込むのは、もうイイカゲンにして、早いとこ、カレー屋をやろう。『カレーの100皿』が店名、キャッチ・コピーは「わたしをカレーに連れてって」。一皿500円。営業はランチのみ。100皿売り切ったら終了。空いた時間は、一杯100円のコーヒーの購入で、ミーティングルームとして開放する。たしかに、毎日々々、カレーをつくる日々だろう。しかし、こんな七面倒くさいことを毎日考えているよりはマシだ。「今日の昼は[わたカレ]にするか」てなふうに客が思ってくれればナア。
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