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2012年3月16日 (金)

続・恋愛的演劇論・6(一部改筆)

「以心伝心」などというと、まるで禅問答の(あるいは禅の教えの)中軸のように考えられがちだが(確かにでどころはそうらしいが)、この「心を以て心を伝える」は、半分正しい。半分というのは、このコトバの半分が誤解されていることに因る。唯物論者からみれば、このコトバはまるで、身体から「ココロ」が抜け出して、送信されて、相手の「ココロ」に受信されるかのような観念論として、排除される。何故なら、ココロも愛とどうよう、手のひらに出して、これがそのココロだす、と、みせられねえもんやからや。しかし、みせられるモノばかりが、存在するモノではナイ。存在するのにみせられないというのは、作品によって違うモザイクの大きさの中に隠されているモノだけではナイ(年代によってもチガウが、新作のモザイクが小さいとは限らない)。閑話休題。能の演技は、その能役者の意識やココロを伝えているのではナイ。能の演技者が伝えているものは、その能の演目の「主題となっている心」だ。能の台本を読むと、それがあまりに粗筋だけの、何の文学性も無いことに驚かされる。(とはいえ、失礼ながら、私は三島由紀夫氏の『近代能楽集』を読んで面白いと思ったことはナイ)。「伝えているもの」を「表現しているもの」と訳すと、その表現の表出に該る部分に最も近いのは、「うつ病の患者が、なにも出来ずにじっとしている」姿だ。うつ病の患者はときに苦しそうな顔をするが、たいていは「無表情」で、彼がナニをしているのかというと、「なにも出来ずにいる」ということを「している」ということになる。能楽の演技の端緒は、この「なにも出来ずに在る」という存在の獲得から成ると考えてイイと思う。面によって表情を封じられ、所作は一挙手一投足を決められて拘束されている中で、何を以て、主題であるココロを伝え得るのか。私は唯物論者ではナイが、身体からココロが抜け出すなどとは考えたことはナイ。そうすると「意識」はココロの外にも存在出来ることになる。これを誇大妄想していくと新興宗教に化ける。能楽の演技者が行うのは、やはり「カタチ」だ。そうでなければ、六百年も伝承出来るワケがナイ。演技表現の表出の仕方は二通りあって、一つを「形象表出(これはカタチ)」、もう一つを「心象表出(こっちはココロ)」という。これはどちらかが一つだけ存在するのではなく、ちょうど直行する関数の軸のように交わっていると想像してもらえばイイ。この座標にあたる部分が、表現における形象と心象の表出の度合いを示す。これは、ずいぶんむかしに、最初に演技論を考えたときに辿り着いたひとつの答えだった。演技はココロでもカタチのどちらかではナイのだ。その双方の座標なのだ。しかし、演技は止まっているものではナイ。その動きを現すものとして、座標を結んで直線をつくる。この直線が動き(速度)ならば、軸の一方は時間軸であり、一方は空間軸ということになる。演技の動き(速度)は一定ではナイから、リニア(一次関数)ではなく、曲線(二次関数)になる。つまり、形象表出(カラダ)と心象表出(ココロ)の関数y=f(x)という関数に対して微分を試みたことになる。微分するというのは瞬間の速度を求めることを意味する。どれだけ先程の曲線が曲がっているか、その勾配を測定する。導関数によってカラダとココロの表出の瞬時における速度を求めようというワケだ。能楽の演技にこれを当てはめた場合、カラダの瞬時の速度から、どれだけココロの表出がうまれるかを観ようということだ。さらに関数を微分していく。すると「加速度」を求めることが出来る。速度も加速度も目にみえるものだ。そうすると、能楽の演技は、極めて瞬時の時間における速度と加速度のカラダの動きを用いたココロの表出を表現したものということが出来る。これは、「なにも出来ずに在る」をゼロ(0)と考えると、そこから形象表出と心象表出を関数として「動きだした」ということになるが、もちろん、それだけではただの運動にしか過ぎない。しかし「伝える」のはここからだ。

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