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2012年3月 1日 (木)

SLOFT/Nにおける贈与交換について-2

贈与交換がポトラッチとして行われていた頃(時代、あるいはその文明)の危険性は、互いに贈与する額が贈与された額を上回り、次第に財を減らして自滅することにあった。いまもアジアの共同体では、婚儀や葬儀のさいにこのポトラッチが行われることが多い。葬儀を一回とりおこなうと、その儀式費用の他に、香典返しという仕来りがくる。婚儀の場合も、お祝い返しが生ずる。婚儀の場合はたいていその一回で済むが、葬儀の場合は、喪明け、初七日、一周忌、三周忌、さまざまに返礼の仕来りがつきまとう。これはマルクス経済学で通例の等価交換でもないし、相対的価値交換でもナイ。何も「交換」していないからだ。といって贈与でもナイ。単なる因習にしか過ぎない。
では、贈与交換として「商品」を仲立ちしない「交換」をした場合、上記のような見返りのようなものがあることを当然とすべきだろうか。私たちはそう、考えない。無償で労働を提供するのだから、いい思いがしたい、などという援助交際のようなことは「贈与交換」にはあてはまらない。(もっとも、援助交際は有償でイイ思いをするのだが)。「贈与交換」は「託す」という私財の遣い方をするものだ。ある対象に「私」を託すのだ。「私」は生物である限り、必ず死ぬ。死ねば「私」は終わりなのだが、対象に「託された私」は遺る。例えば、近江商人の考え方はこうだ。いま、目の前にどんと銭がある。ふつうの商人なら掴み取ってしまうだろう。しかし、近江商人は、そんなことはしない。その銭を、どうぞと、(信用のおける)ある者に託す。ある者が、それを元手にして財を成したとしよう。その分け前を貰う、ということも近江商人はしない。近江商人は、その者と商取引をするのだ。つまり、目の前の銭を与えて、ある者を「資本」に変えてしまうのだ。そうしてから、その者と商いをする。独占的にやろうと思えば、その、ある者は、やはり第一番に銭を与えて貰った者をその義と考えるから、近江商人は、そこで銭儲けをすることが出来る。これが「損して得とれ」だ。
「贈与交換」は、まさにこの道理で動いている。対象を資本にしてしまうという道理だ。私はこの道理で、名古屋で生きてきた。もちろん、失敗もしているから損失も大きかったと思う。しかし、それよりも多くの「資本」を創ってきた。ひとは自分の成さんとしたことに必ず裏切られるというカタチでしか、成就をみない。これが生きる本質ならば、「資本」は霧散するのだろうか。たしかに霧散したようにみえる。だが、正確にこれをいえば「資本」は「散逸」するのだ。つまり完全に「平衡状態」になるということはナイ。濃度の分布をもって存在する。これはイリヤ・ブリゴジンの「散逸構造論」にも届こうとする、「資本」というエネルギーの「秩序」であり、その運動としての「ゆらぎ」だ。「贈与交換」は、資本というもの本来の(あるがままの)姿である「資本」を対象に遺し、対象に遺すという価値を与えた(贈与した)者に「資本」という価値として交換されるものだ。そこにはドレスと創造者とにおける主従の引っくり返りはナイ。常にそれを創造するものが「主」であるという位置を保つことになる。

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