ナサリアン
朝から風雨だ。どうやら夜までつづくようだ。こういうときは閉じ籠もりではなく、閉じ込められになる。風雨でなくとも、独居で車に乗れないとなると、買い出しやら外食もままならない。よって、水は買いだめしてある。備蓄ということではなく、2ℓのペットボトルは重いのだ。だから、6本入りのケースが常に6ケースあるようにネット注文の宅配にしてある。米も重いので、2㎏の無洗米を買うが、二袋を切らないようにしてある。無洗米にしてあるのは、ずぼらなワケではなく、米を研ぐという行為が出来なくなった場合(台所に立てなくなったりすることもあるだろう)を考えてのことだ。農薬の残量は、ふつうの精米より、無洗米のほうが少ない。もちろん研がずに炊く配慮からだろう。ウイスキーもネットで2,7ℓの大きなペットポトルタイプを4本買う。もちろん、これも買い物のとき重くて面倒だからだが、中身は一緒なので、それを700㎖の瓶に移して、飲んでいる。
ゆんべは、ひさしぶりにルイス・ブニュエルの『ナサリン』を観た。この映画はブニュエルがメキシコ時代に撮ったものだが、1959年カンヌ映画祭国際賞を受賞している。あまり知られてはいない映画だが、さまざまな人々に大きな影響を与えている。(ウディ・アレンもそのひとりだ)。この映画は、生きることに対する考え方、姿勢について私にも転機となった。簡単に物語を説明すると、ナサリアというローマ・カトリックの司祭が、メキシコの貧民街に住んでいる。喧嘩でひとを殺した売春婦を匿ったことから、警察に追われることになる。で、行く先々で、よかれと思ってしたことがことごとく裏目に出る。ついに捕まって、罪人の悪党どもと牢に入れられる。そこでも悪党連中から罵倒され、ナサリアはこういってしまう「私はあなた方を赦す、しかし、軽蔑する」。悪党どもはそれを聞いてさらに激しくナサリアを暴行する。それを止めに入ったひとりの悪党がいる。ナサリアはその男に礼をいったアト「悔い改めませんか」という。悪党は「出来ないな」てなふうに応える。「生き方を変えてみたいと思いませんか」とナサリア。それに対して「あんたは、どうなんだい。生き方を変えてみたいと思うかい」と悪党。悪党は続ける「あんたは善のほう、俺は悪のほう、お互い立場は違うが、どっちも役に立たないということでは一緒だ」。ナサリアは、ローマ本部からの配慮もあって、個別に刑務所へと護送される。途中、老婆から哀れみのバイナップルを差し出されるが、これを拒絶する。しかし、すぐさま思いなおして受け取るのだが、そこには信仰厚きナサリアはもういない。絶望と懐疑のひとが在るだけだ。ここで、初めて音楽、といっても、太鼓の連打が入る。これがあたかもナサリアの心情、行く手を物語っている。ブニュエルは「私は終生、無神論者でいられたことをのみ神に感謝する」という名言を残しているが、映画は宗教云々をテーマにしているのではナイ。この映画をむかし一緒に映画館で観たTくんは「この映画はボディブローですねえ。あとから効いてきますね」と、これまた名文句を吐いた。自らが信じていて、よかれと思って成したことなど、先にどうなるか、ワカッタもんじゃナイ。さらにいうなら演劇などなんの役に立つというのだ。最初、この映画を観たときからいまのいままで、まさに私もナサリアと同じ思いを胸に刻んで生きている、いわばナサリアンだ。この映画の作品構造、物語のわかりやすさ、ポピュラリティーに対する芸術の無力というテーマ、それらの描き方は、太宰治の短編を読んだアトの衝撃とよく似ている。
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