無料ブログはココログ

« 『CUT』を観て | トップページ | 試写『MY HOUSE』 »

2012年3月15日 (木)

続・恋愛的演劇論・5

演技というものが、舞台とういう「空間」における、ある運動(作用)であるとすれば、それは、空間における「速度」というカラダの動きと向きが加わったベクトルとしての力学で決められることになる。つまり、知覚精神現象における運動脳の働きとして決定されることになる。こういった演技論やメソッドは数限りなく考案されてきたように思われるが、その何れもが、たいていは演技者によって「役立たず」になってしまうのは、おそらく次のような理由による。スタニスラフスキーを受けて、リー・ストラスバーグに継承されたものに「五感の記憶」というメソッドがある。「五感の記憶」とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の記憶のことだ。これを働かせることによって、演技に結びつけようということなのだが、また、これが、メソッドの基礎訓練なのだが、これらを端的に現しているものに「ウイスキーの飲み方」がある。あるいは「熱いコーヒー」でも構わない。これを課題に訓練を行う。このときにメソッドの特徴的なことは、さも「ウイスキーを飲んでいるようにみせない」こと、「熱いという顔をしながらコーヒーを口にしない」ことというのが、いわゆる紋切り型との決別というワケだ。この記憶はまた「歯痛」などの訓練にも応用される。歯が痛いとき、如何にも痛そうにしないこと。その記憶だけを頼りに想像を働かせて、痛みを我慢しているようにみせると、リアリティがうまれるというワケだ。このもっともらしいメソッドは、難易度の高いものとされているが、それが難儀なのは、演技者の想像力や記憶の貧困さからくるのではナイ。五感という身体感覚をすべて知覚精神現象としてとらえているところが、マチガイなのだ。たしかに、舞台において演技者は、腹など痛くもナイのに腹が痛いと演じなければならないことがある。好きでもナイ女優の恋人にならなければいけないときもある。それらは運動脳によって表現するしかナイものだ。笑いたくもナイのに笑うというのが、運動脳だ。たとえば、恋の演技をしなければならない場合、そのときの五感の記憶というのは如何なるものか。リアルな恋愛表現、そもそも恋のリアルというのはナンなのだ。そういうことは結婚詐欺師に訊ねるのが最も手っとり早いのではナイのか。「恋は現実においては最大の嘘である」。ある切実さを伴った虚構にしか過ぎない。精神医学のある実験で、運動脳の欠損した被験者の患者に「笑ってごらんなさい」とmissionしても、笑わないが、ほんとうにオモシロイもの(たとえばコントや漫才)をみせると、ちゃんと笑うという報告がある。このとき、被験者の患者は、運動脳の機能をマヒさせてはいるが、感情脳としての機能は働かせることが出来ることを物語っている。つまり、メソッドの欠陥は、心的現象であるものを知覚精神現象として捉え、運動脳でみせられると考えたことにある。コトバを変えていえば、本来は心的現象であるものを、知覚精神現象として認識したところから演技を組み立てているところにある。これを初手から否定したのが、能だ。能面は「どういうふうにも、観るがわの気持ちによって観ることが出来る」ためにつけるものではナイ。演技者の「表情を封じる」ためにつけるものだ。表情がたった一つの能の面(おもて)においては五感の記憶など何の頼りにもならない。つまり、五感という「現実」を虚構化するさいに、その記憶などはアテにしないのだ。では、何によって、能は演技表現をするのだろうか。

« 『CUT』を観て | トップページ | 試写『MY HOUSE』 »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/54230059

この記事へのトラックバック一覧です: 続・恋愛的演劇論・5:

« 『CUT』を観て | トップページ | 試写『MY HOUSE』 »