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2012年3月

2012年3月31日 (土)

ナサリアン

朝から風雨だ。どうやら夜までつづくようだ。こういうときは閉じ籠もりではなく、閉じ込められになる。風雨でなくとも、独居で車に乗れないとなると、買い出しやら外食もままならない。よって、水は買いだめしてある。備蓄ということではなく、2ℓのペットボトルは重いのだ。だから、6本入りのケースが常に6ケースあるようにネット注文の宅配にしてある。米も重いので、2㎏の無洗米を買うが、二袋を切らないようにしてある。無洗米にしてあるのは、ずぼらなワケではなく、米を研ぐという行為が出来なくなった場合(台所に立てなくなったりすることもあるだろう)を考えてのことだ。農薬の残量は、ふつうの精米より、無洗米のほうが少ない。もちろん研がずに炊く配慮からだろう。ウイスキーもネットで2,7ℓの大きなペットポトルタイプを4本買う。もちろん、これも買い物のとき重くて面倒だからだが、中身は一緒なので、それを700㎖の瓶に移して、飲んでいる。
ゆんべは、ひさしぶりにルイス・ブニュエルの『ナサリン』を観た。この映画はブニュエルがメキシコ時代に撮ったものだが、1959年カンヌ映画祭国際賞を受賞している。あまり知られてはいない映画だが、さまざまな人々に大きな影響を与えている。(ウディ・アレンもそのひとりだ)。この映画は、生きることに対する考え方、姿勢について私にも転機となった。簡単に物語を説明すると、ナサリアというローマ・カトリックの司祭が、メキシコの貧民街に住んでいる。喧嘩でひとを殺した売春婦を匿ったことから、警察に追われることになる。で、行く先々で、よかれと思ってしたことがことごとく裏目に出る。ついに捕まって、罪人の悪党どもと牢に入れられる。そこでも悪党連中から罵倒され、ナサリアはこういってしまう「私はあなた方を赦す、しかし、軽蔑する」。悪党どもはそれを聞いてさらに激しくナサリアを暴行する。それを止めに入ったひとりの悪党がいる。ナサリアはその男に礼をいったアト「悔い改めませんか」という。悪党は「出来ないな」てなふうに応える。「生き方を変えてみたいと思いませんか」とナサリア。それに対して「あんたは、どうなんだい。生き方を変えてみたいと思うかい」と悪党。悪党は続ける「あんたは善のほう、俺は悪のほう、お互い立場は違うが、どっちも役に立たないということでは一緒だ」。ナサリアは、ローマ本部からの配慮もあって、個別に刑務所へと護送される。途中、老婆から哀れみのバイナップルを差し出されるが、これを拒絶する。しかし、すぐさま思いなおして受け取るのだが、そこには信仰厚きナサリアはもういない。絶望と懐疑のひとが在るだけだ。ここで、初めて音楽、といっても、太鼓の連打が入る。これがあたかもナサリアの心情、行く手を物語っている。ブニュエルは「私は終生、無神論者でいられたことをのみ神に感謝する」という名言を残しているが、映画は宗教云々をテーマにしているのではナイ。この映画をむかし一緒に映画館で観たTくんは「この映画はボディブローですねえ。あとから効いてきますね」と、これまた名文句を吐いた。自らが信じていて、よかれと思って成したことなど、先にどうなるか、ワカッタもんじゃナイ。さらにいうなら演劇などなんの役に立つというのだ。最初、この映画を観たときからいまのいままで、まさに私もナサリアと同じ思いを胸に刻んで生きている、いわばナサリアンだ。この映画の作品構造、物語のわかりやすさ、ポピュラリティーに対する芸術の無力というテーマ、それらの描き方は、太宰治の短編を読んだアトの衝撃とよく似ている。

続・恋愛的演劇論(実践編)・7

東京在住の演劇関係者が、東京在住の観客に向けて、舞台を提供する。その演目がオリジナルだろうが、外国の有名作品だろうが、提供さる作品そのものは、その両者にとってひとつの「疎外」としてしか現されない。なぜなら、東京在住者は双方ともに殆どすべてといってイイほど地方出身者であり、それゆえに東京という環境からの表現に対して自身の加速度を以てしか抵抗出来ないからだ。すると、加速度を持ち得ない者は、東京という疎外でしか東京と関係・了解出来得ない。「おれはおまえに弱いんだ」という恋の告白のせりふは、あきらかに東京のコトバだ。つまり東京の「虚構」だ。そうすると演技者は、このせりふを対象化するのに、まず、東京の虚構というステップを踏まなくてはならない。ここでは感情の記憶もリラックスも無意味な作業でしかナイように思われる。演技者が戯曲を手にしてそれを台本化(舞台で演じるための作業)するとき、おそらく誰もがその役を「こういうふうに演じたい」「こういうふうにみせたい」と思うに違いない。従って、そういうふうに演じるには、そういうふうにみせるには、どうすればいいのかが、演技の課題となってくる。しかし、ごくふつうに行われている台本化(戯曲の理解)においては、まず、その「役がどう在るか」「どう観るか」から始まる。(注:台本化というのは、書かれた劇である戯曲を、演じられる劇に写像するときに、書かれているものを演じられるように置換する作業をいう。よって、まず台本が在るのではナイ。これを誤解して、次の台本の〆切予定は云々といってくる劇団があるが、私が書いているのは戯曲だ。映画の場合は脚本(scenario)という)。ふつうはそれを「役づくり」と称しているが、それがたとえ実在の人物の評伝を元にした戯曲であっても、実在の人物のことなどワカラナイ。だから、ハムレットや、ロミオ、オフェーリアや、ジュリエットは、どう在るもどう観るも、架空の存在なのだから、無鉄砲にいうなら、勝手に創るしかナイ。もっと無造作にいうなら、それらしく演じるしかナイ。まずロミオが醜男であるワケがナイ。ジュリエットが醜女であるワケがナイ。与えられた最低綱領はそれだけだ。最高綱領は、せりふの中にしかナイ。では「おれはおまえに弱いんだ」はどうする。テーマやシチュェーションやモチベーションがわからんじゃナイですか。はい、ごもっとも。では「古池や蛙飛び込む水の音」ではどうだ。これは俳句として書き言葉としてはこれ以上の情報はナイ。これを読むのにテーマやシチュエーションやモチベーションが必要か。「古池」をさも古い池のように読めばいいのか。そうなるとどんな読み方になる。蛙はカエルの気持ちになるのか。私は何も因縁をつけているのではナイ。私たちは、微分方程式で「部分から全体を組み立てる」「部分を観て全体を知る」という方法論(演技)を論じた。「おれはおまえに弱いんだ」は、れっきとした「部分」だ。この「部分」から東京という「全体」を組み立てるか知らなければならない。東京という「虚構」をだ。つまり「おれはおまえに弱いんだ」に、東京の「虚構」というステップが踏まれていなければ、正しいせりふは出てこない。もちろんそれは、東京在住の地方出身者の(形態・心象)の表出座標と、そのせりふが観客に向けて飛んでくる加速度(向きと速さ)を含むという表現に辿り着けなければならない。

2012年3月30日 (金)

続・恋愛的演劇論(実践編)・6

私たちは「加速度」や「ゆらぎ」というコトバで表現の在り方を説いているが、唯物論者にいわせれば、ムンクやゴッホの絵に重力などは無いということになるだろう。また、私たちはそれを観念論的に扱っているのでもナイ。単純に心的領域の現象を運動脳によって知覚精神現象に置き換えたもの(演技)を、数学や物理学その他のコトバを借用して、その概念(カテゴリー)と考え方、方法論を用いているだけだ。それは、前回にも述べたごとくだ。その伝でいうと、表現=(表出+[加速度・ゆらぎ])を設定した場合、表現者の能動的な表現が、観客の受動的(或いは能動的)な表現(ゆらぎ)と干渉を起こして表現は加速度的に成立していくことになる。そう解釈して不都合はナイ。不都合がある場合は、表現者と観客のコヒーレンス(ゆらぎ(波)の干渉の度合い)が、干渉せずにコヒーレントな状態(加速度が増加する)にならないという場合にみられるということだ。これには、もちろん、表現者(演技者)と観客の双方の「関係」と「了解」の成り立ちに原因が求められる。
たとえば演技者はコトバ(せりふ)という表現を「表現それ自体」として用いているのではナイ。せりふという表現は「対象化」されたアト、表現される。例示すれば、「おれはおまえに弱いんだ」という恋する男の告白があったとする。キザなせりふだが、これは故人石原裕次郎の歌の歌詞だ(そんだで、しょうがナイ。私たちがこんなのを使ったら、相手の女性にゲハッと笑われるだろう)。「対象化」するというのは、これまた難しそうなコトバだが、舞台化とか映画化というふうに「化」ってのはよく使われている、あれと同じことだ。「対象」はその語のごとく、何でもイイ。目の前のコレと決めたら、それが対象だ。べつに物質だろうが、意識だろうが、かまわない。つまり「おれはおまえに弱いんだ」というせりふを、まず一度「対象」として観る。そのとき、コトバを発する演技者(主体というが)と対象のあいだにはナニが起こっているか。それが「関係」と「了解」だし、そこには「空間的関係・時間的関係」と「空間的了解・時間的了解」があり、それらを私たちは形態(形象)表出と心象表出として、空間性、時間性で現した。つまり「対象化」したのだ。簡単にいえば、演技者とせりふは別個のものでありながら、前述したように対応(関係)したものとして在り、それを演技者が表現するのだ。システムやメソッドで、「外的性格」とか「内的性格」というふうに称されているものは、およそこの類のもので、単純にベクトルの方向を変えているに過ぎない。さて、そこでこの「おれはおまえに弱いんだ」を石原裕次郎がせりふでいうとする。上手いとか下手とか評価出来るものではなく、もはやそれは石原裕次郎のコトバというしかナイ。しかし、ある演技者が同じせりふをいうとする。これは観客にどう伝わる(観客のゆらぎとどう干渉する)のだろうか。コトバを変えて、このせりふを観客に伝えるために、演技者はどう演技すればイイのだろうか。石原裕次郎のマネ、模倣でもやればイイのだろうか。あらゆる演技論、演技術、システム、メソッド、に対する私たちの要望、要請は、単純にこれだけのことに答えてもらいたい、それだけだ。

2012年3月29日 (木)

心霊現象を笑っていいかナ

月に一度の恒例の帰郷。最近は京都にいる弟と日にちを合わせて帰っている。というのも、こやつと話すのが楽しいからだ。弟は六つ年下だが、料理、コミック、映画から、政治、社会、科学まで、何処で勉強したのか、私のほうの提出する話題にレベルを落すことなく呼応出来るので(そういうのが名古屋にゃいないから)、けっこうストレスの発散になる。たとえば、「心理学ってのは、spiritやheartとかココロとは関係ないんだ」と切り出せば、「そうそう、心理学は、行動、動作を観察して分析するだけやから」というふうに。で、昨日はテレビでバラェティ番組『世界の心霊現象2012』というのに彼がチャンネルを合わせたので、「よし、ひとつ、心霊現象とやらを解明してみようではナイか」ということになって、いやあ、笑った、笑った。
こういうバラエティが取り上げる心霊現象の動画には、一定のパターンがある。どういうワケか、偶然映っている「とんでもナイもの」とやらの女性は髪がロングでスリムで視線が「こっち」を観ている。怖そうなところに現れる(ここで現れると怖いぞというのを何故か心霊さんは知っている)。最近のオーブという発光現象について弟は「あれは空気中の塵とか埃とか、何か反射するものに光があたっているだけなんやけど、最近のカメラは解像度が高いので、最近は多く現れるようになったのとちゃうか。たいてい、廃墟のビルとか、埃っぽいところに出るからな」と明解なことをいうてました。アイドルがその廃墟ビルを探検するというパターンが必ずあるが、今回は、心霊研究家(こういうのもいつも出てくるんだけど。ありゃあ、テキ屋です)もご一緒。で「あそこにいますね」というところにアイドルを立たせて写真を撮る。すると、アイドルが二人になって映っている。次にその写真をもう一度(雛壇のタレントたちとお茶の間)が観ると、アイドルは消えている。これは鏡像写真だということはすぐにワカッタ。で、アイドルが消失するのは、同じ写真を二度撮っていて、一枚は鏡像にしなかったからに過ぎない。霊障の家というのが出てきた(これもパターンだが)。41歳の男性が父親と二人で住んでいる家。あちこちに御札が貼ってある。霊に祟られて、仕事を辞めたという。首を締められたり、心臓を掴まえられたりするという。そこで、カメラが設置される。男性の寝室は和室。ガラス障子を挟んで幅三尺、長さ二間ばかりの廊下があり、向かいは壁ではなく、襖だ。さて、異変が起きる。起きなければつまらない。まず、男性の寝室側から観て、ガラス障子に影が移動する。次に同時刻の廊下の様子をカメラが捉えている画像が映されるが、廊下には誰も、何もいない。次にガラス障子の端っこに女性の頭部(顔)らしい影が現れる。廊下の映像には何も、誰も映っていない。さて、ここから杉下右京みたいに謎を解いていく。ともかく、何事も不思議なもの(事象)に対しては、疑問を持つ(捜す)ことだ。これは単純なもののほうがイイ。まず、私は、なぜ心霊さんが「影」なのかという疑問を立てる。男性の寝室は電灯が消されて真っ暗だ。しかし、影がみえるということは、「廊下には電灯が点って」いなければならないことになる。どうして、廊下だけ電灯を点けたままにするのだろう。その影について弟が移動する「影」は背丈が高すぎると指摘。そこで、謎が解ける。廊下に誰も(何も)いなくとも、影なら作れる。ピンホールで投影すればイイだけのことだ。移動する影の背丈が高くなるのは、投影されたガラス障子との距離の問題で、影の部分が大きくなっというワケだ。おそらくトリックはそれだけだ。この他、さまざまな心霊現象映像について、笑いながら弟と、これはここがオカシイと語り合う楽しい二時間だった。出来るなら、独り暮らしで退屈している私のスラムアパートにも心霊さんが出てくれねえかなと思う。そのときは、ゆっくり語り合おうじゃないか。「いまの時代に心霊だのホラーだのってのはなあ、お伽話がなくなったからなんだぜ」とかさ。

2012年3月27日 (火)

『マリリン 7日間の恋』

サイモン・カーティス監督のこの映画、コリン・クラークの原作で実話だということです。つまり、このコリン・クラークがサード助監督についた『王子と踊り子』(ローレンス・オリビエ監督・主演)を入れ子にしたメタ映画なワケです。マリリン・モンローをミシェル・ウィリアムズという若手女優が演じて、ゴールデングローブ主演女優賞他、数多の主演女優賞を獲得しています。物語は単純なもので、『王子と踊り子』の撮影のためにイギリスを訪れたマリリンはなんでか情緒不安定で、せりふもうまく出てこず、撮影をすっぽかしたり、途中で投げたり、同行してきたポーラ・ストラスバーグ(このひと、あのリー・ストラスバーグの奥さんですわ)に相談したり、慰められたりするんですが、やっぱりうまくいかず、ついにはヒステリックになって「リーに、リー・ストラスバーグと相談するワ」なんていいだすんですが、先述したコリンくん23歳と親しくなって、コリンくんは他に口説いていた衣裳係の女性もいるんですけど、マリリンに魅せられて、特にどうってことない助言をすんですが、ともかく、恋をして、つまりですね、情況から読み取るに、マリリンの情緒不安は、1に自身がマリリン・モンローとしてしかみられない不安、2に三度目の夫アーサー・ミラーに対する不信、それと3に妊娠初期の影響、のようなんですけど、コリンくんと、いままでしたことのナイ恋をして、立ち直る、あまりベタベタしないラブ・ロマンスです。なんだか悲恋ものばかりが多いご時世に、こういうサラッとした大人の恋、それによって成長するコリンくん、というのがエエですな。もちろん、ミシェル・ウィリアムズは、主演女優賞(アカデミー賞でも候補だったんですけど、相手が悪かったですな)を幾つも受賞しているだけあって、賞賛ものです。マリリン・モンローは、ストラスバーグのアクターズ・スタジオにも真面目に通っていて、セクシー女優、セックス・シンボルというレッテルから演技派への脱皮を目指していたようです。『メソード演技』(エドワード・D・イースティ著・劇書房)には、一章とって、マリリン・モンローのエピソードが書かれています(読むとですな、マリリン・モンローが入所十八カ月目にして、「場面を設定した短いシーンのドラマ」を、映画のマリリン・モンローではない、「外的性格」で演じたということなんですけど、そりゃまあ、マリリン・モンローは、映画ではマリリン・モンローをまず演ずるところからしか仕事が出来なかったワケですから-もちろん、プロデューサーサイドの要請です-まったく違ったマリリンを観たその場のスタジオの生徒たちには大きな衝撃だったでしょう)。映画の冒頭では、うまくいかないところを、なんとかメソッドで乗り切ろうとするんですけど(そういうせりふもあります「役の内面が創れない」だったか、そんなようなせりふ)、コリンくんとの恋がイチバンの薬だったようです。特筆すべきは、ジュディ・デンチ(007のM役の女優)の、さすがな演技です。せりふもイイです。マリリンの相手役なんですが、マリリンの遅刻にも、掛け合いのせりふでマリリンが何度もNGを出すことにも、文句ひとついわず、懐の深いところと、マリリンに恥をかかせぬ配慮をします。(こういうところをこそ、見習えよな、日本の大女優とやらはっ)女優志願の方、女優の方、観て損はしません。

続・恋愛的演劇論(実践編)・5

演劇(演技)論を展開するのに数学を使うのは数学が得意だからではナイ。その概念(考え方・方法)が適していると思われるからで、数学の他にも物理学もどきが出てきたりしているのはそのためだ。しかし、半可通の身でいうのもなんだが、スタニスラフスキー関係の演劇論を読むと(特にそうだからいうのだが、他のどんな演劇論にしても同じように)なんだか「道徳倫理」を説かれているような気がして、そっちのほうが、ヤになっちゃうのだ(なんだか面倒くさそうでつまんねえ、ガッコの授業みてえ、という、アレね)。数学は得意ではないので、どうしても一知半解になる。数学に達者な者は、私の使う数学に多くの誤謬をみているかも知れない。しかし、玉石混淆というコトバがある。私の数学の中にも玉だってあるだろう。
ここで「微分」というものを整理しておく(やや唐突、無造作に使ったかナという反省からだが)。「微分というのは、y=f(x)という関数の曲線における部分を限りなく小さくしていくこと」だ。私たちはそれをh→0という時間の凝縮(瞬間の速度を求める)として用いた。そうして求められた「加速度」という概念を演劇に応用した。さて、曲線全体は関数だから、xとyで現される(関数というのは一方の値-たとえばx-が決まると、それに対応してもう一方の値-y-が決まるというお約束だ)。このとき、xの成分をdxとする(成分というのは、この場合x軸に分布されている値だ)。どうようにyの成分をdyとする。つまりxとyの二つの成分に分けるということだ。これを微分係数という(なんでそういうのかは知らん。こういうのは数学者がそういうふうに名付けたのだから仕方がない。こういうのが頻繁に出てくるので、私たちは苦労が絶えない)。さて、ここから微分方程式へと話を移す。(もう少しついて来てネ)。方程式というのは「二つの関数を=(等号)で結んだ式」のことをいう。だから、微分方程式というのは、微分された二つの関数を=で結んだ式のことだ。そうして、微分方程式をザックリいえば、さきほどの微分係数(dy/dx)を「部分」として、その部分から全体を組み立てることだ。作業はジグソーパズルに似ている。しかし、これは、ほんとうは「部分」を観て「全体」を知るという数学的方法だ。もっといえば、「部分」を観れば「全体」が解るというシロモノだ。まるで手相占いのようなものだ。掌を観て、そのひとの全体を占うのだから。しかし、これほど便利な道具はナイゆえに、演技論にも応用が出来るのだ。「部分」と「全体」の関係を演劇において述べると、次のようになる。
○如何なる役者も演劇全体の部分である-(dx)や(dy)という成分だ-
○如何なる役者も演劇の部分として、演劇全体と関係している-(dy)や(dx)という成分による関数だ-
○如何なる役者も全体と合致している(全体と同じである)-(dy)や(dx)によって全てが出来ている-
よって、「微分方程式を解く」という作業は、演技者の、その演目における演技の役割を上記の三つの事象によって考察するということと同じことになる。これが、演劇への数学の応用だ。数学を用いると抽象的、普遍性なものが導ける。ふつう、演技のシステム、メソッド、他演技論は、たいてい、ある法則、論理があって、それを個人(演技者)に向けて「こうしなければならない」と説く。しかし私たちはそうしない。私たちは、演技者の固有性(具体性)が、私たちの求めた抽象的、普遍性に、どう関係し、演技者がそれをどう了解しているのかを考えていくという逆のプロセスを辿る。

2012年3月26日 (月)

続・恋愛的演劇論(実践編)・4

ここまで私たちが進んできて得られたことをまとめて書くと以下のようになる。
「演技表現とは、空間性としては形態(形象)表出と心象表出によってつくられる空間座標系であり、時間性としては形態表出と心象表出を関数として加速度まで微分したベクトル(向きと速度)合成としての時間性である」
ひとつ、例示する。能楽の所作において、一挙手一投足が決められ、表情も面によって決められているということは能楽師(仕手)に対する[束縛を意味しない]。それら所作は、一つの[完成としての到達]として創られている。それらは、完成されるまでに無限の年月を要するが、無限の先に完成を置くということによって、常に能楽師の修練を求めることになる。つまり[極限]として設定されている。能楽師は常にこの[極限]を演じることになる。これが、六百年の長きにわたって伝承されたる能楽の所以だ。
私のおつむがもちっとよければ、このような旋回するような展開ではナイ、理路整然とした論理、理論が組み立てられたろうが、ここらあたりが、私なりの精一杯のところだ。論理のワカリニクサは、私の中での咀嚼の不足を物語っているのだろうが、私自身がワカラズに書いているということではまったく、ナイ。なんとか、読者諸氏に、この稚拙なる思考を伝えんとして、出来るだけアナログで、inspirationによる感覚や、academicな用語を用いずに試みているが、それはつまり、いま若くして演劇の道程にある人々に理解を促したいために他ならない。
さて、ここで、一つ命題を設ける。
「それら表現(ゆらぎ)は、観客の受動的、能動的な「ゆらぎ」に干渉する」
この帰納命題がなければ、演技や演劇は、それを行使するものの対自的なところにとどまり、観客(観手)の存在意義や、演劇そのものの存在価値が霧消してしまう。この辺りは、「現実」と「虚構」の問題、あるいは、うつ病の問題ともリンクしてくる可能性を秘めていると思われる。紅孔雀の地図と鍵が必要とされる、紅孔雀の秘宝は、空の果て、蒼き潮の海の底、深き眠りに包まれて、いまもこの世にあるという。

続・恋愛的演劇論(実践編)・3

ここは少々難しいかも知れないが、辛抱してもらいたい。「表出=疎外」(表出それ自体は疎外それ自体と同じということだが、これを端的に説明するためにやや語弊のあるかも知れないことを例示すると、私たちは、言語(コトバ)という表出表現の方法、手段を持っているが、常に「うまくいえないんですけど」に直面するし、また、うまくいえたとしても、いったコトバそのものが自らを縛る、束縛する、呪縛する、という事態に陥る。これは本質的なことだ。「思っているとおりにはいえない-書けないものだ」「思ったとおりにいった-書いたことで自らがそのコトバに逆に従属させられる」。と、こう理解しておくことにしてもらいたい)。ところで、それを「表現=疎外+加速度」という定式に変えてみると、加速度が加算されるので「表現≠疎外」となる。これを他の例で示せば、たとえば、私たちが、ムンクやゴッホの名画の前に佇み、感銘し、その作品に引き込まれていくようなココロの作用は、絵の持つ加速度(ここでは重力に因る加速度)による現象だということが出来る。加速度を運動量の「量」の変化ではなく、ベクトルとしての「質」の変化と捉えれば、加速度という運動量の変容が、ある心的作用を生じさせたといってイイ。もし、等速直線運動を速度の線型(-)、平衡系(-)として措定するならば、加速度は非線型(~)の「ゆらぎ」(~)と考えることも[概念の使い方の上では]可能だ。そうすると、前述の定式は「表現=疎外+加速度」→「表現=疎外+ゆらぎ」と書き直せる。これは、表現とは、表出にゆらぎが加算されたものを示している(「表出+ゆらぎ=表現」)。そこから当然ながら、「表現≠疎外」が導き出せる。そうすることによって「表出=疎外」という呪縛から「表現」を解放することが出来る(つまり「表出≠表現」、表出それ自体は、表現それ自体と同じではナイということだ)。そこで、「では何が、何故、加速するのか」というというのが残された問題となる。

2012年3月25日 (日)

『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』

ガイ・リッチー監督とミシェル&ラン・マローニー(脚本、この二人、夫婦なんだそうです)によって、二枚目半のナイスガイに変身を遂げたホームズ(ロバート・ダウニーjr)と、ただの年寄りから鋭敏なる片腕となったワトスン(ジュード・ロウ)の二作目だ。私はこの映画、買いです。たぶん、憤慨しているであろう、全世界のシャーロキアンを相手にしてでも、買い、ね。あのホームズ・シリーズをアクション映画にしただけでなく、その推理を映像(シャドウ ゲーム)でみせるという斬新なやり口は賞賛に値しますワ。ジャッキー・チェンの香港映画みたいだ、なんてことはどうでもよろしい。その影響を受けているというより、いいとこどりをしていることはワカリマス。ともかくも、アクションの観せかたがイイ。あるときはカット・バックして、如何にして現時点になったのかをみせる。あるときはその推理を、あるときはアクションのシミュレーションを、あるときは、まさにアクションそのものをスローモーションとストップモーションで。3Dなんかくそくらえです。で、これだけだと、ほんとにB級香港映画になるんですが、理路が通っているので、納得がいく。つまり、伏線(input)に対しての結果(output)がキチンと描けています。しかも、あのアイリーン(レイチェル・マクアダムス)を冒頭で死なせちゃう。代わりにヒロインとなるのが『ミレニアム(三部作)ドラゴンタトゥの女』のヒロイン、リスベットを演じたノミオ・ラパス。レイチェルも欲しいところなんだけど、ノミオでやっちゃう英断が凄まじい。おそらくシリーズ「3」では、アイリーンは復活するでしょう。でないと話になんない。この脚本家はそういう悪戯が好きですね。ホームズがモリアーティ教授の大学の教授室に訪れます。「サインが欲しくて」と差し出した本がモリアーティの著作『小惑星の力学』、こういう遊びは、ホームズには天文学の知識がまったくなかったという原作の設定を知らないと書けない。しかしながら、滝です。もう、結末はワカッテいる。そのプロットをどう描くのか。これを、整形手術を受けて顔を変えたノミオの兄、暗殺者をパーティー会場からワトスンとノミオがともに捜すのと、滝を背にチェスをやりながら、ホームズとモリアーティ教授がシャドウ ゲームを行使するのとを交叉させて描く、なんというスリリングな展開。かくして、その結末も、ちゃんと伏線に応えてのもの。私は、これはもう買いです。

続・恋愛的演劇論(実践編)・2

このところ殆ど一日おきに大阪方面に出向いている。昨日は『光をあつめて』(高橋恵・脚本、深津篤史・演出)をドーンセンターで観劇。いつも書くように私はけしていい観客ではナイので、内容に関しての感想は書かない。気になったのはこのホールの残響秒数が長いため、役者のせりふが早くなるにつれ(たとえば大阪弁なんかは早いのだが)エッジがぼけて、聞き取りにくくなることだ。これは、ホンのせいでも演出のせいでもナイ。大阪にはこの程度のホールしかナイのを、同業者に対して同情するだけだ。
本編は、大阪が生んだ女性写真家のパイオニア、山沢栄子の半生記だ。私が興味を覚えたのはあるシーン。大戦中の疎開先で、ヒロイン山沢栄子が、当時の新劇女優(築地小劇場の女優)山本安英のポートレートの仕事をするところ。ここで、山沢は山本に独り芝居を演じてもらってシャッターチャンスを待つ。いまなら、デジタルでフィルム代も要らず、連写という秒数枚の写真が撮れるので、シャッターチャンスはさほど緊張感を必要とするものではナイ。しかし、舞台写真という分野は別だ。連写のシャッター音が気になるので本番では撮らない。ゲネプロでたいていは撮るのだが、それでも、ほんものの写真家は、連写しない。どうように音が邪魔になるからという配慮による。ところで、山沢はそのシャッターチャンスを待つ。長時間をかけて1枚撮る。さて、そのシャッターチャンスというものについてだが、たとえば、爪先をぶつけて脳が痛みを感じるのにおおよそ0,5秒から1秒かかる。同じように、ここ、というシャッターチャンスにシャッターをきる場合においては、視覚が判断して指先が呼応するまで0,2秒ほどの遅延が起きる。つまり、写真家は撮りたいものの映像を0,2秒前に予測していなければならないことになる。これはたいていは写真家の経験値や勘の善し悪しとされてきた。しかし、私たちが考えたように、ここに加速度という概念を導入するとどうなるだろう。対象は写されるモデルだ。表現する主体は写真家だ。私たちが気づきにくいのは、写真というものが、何か実体を写しているのではナイかという錯覚だ。写真は写真家によって表現された「虚構」だ。このことを最初に述べたのは、荒木経惟さんだ。写真は「現実」を撮るのではナイ。あくまで写真家によって表現された「現実」の虚構だ。さて、この0,2秒という遅延を縮めるために、表現者は加速度を手に入れるとする。ここで、加速度について言及しておくなら、加速度というのは、ある時間当たりの速度の変化をいう。(速度はベクトルとして捉えられるので、加速度も同様にベクトルとなる。従って加速度はベクトルとして平行四辺形のカタチに合成や分解ができる。力や速度の場合と同様だ。つまり、向きを変え、速さを変えることが出来る)何やら難しそうだが、等速直線運動をしている物体の加速度を求める数式は単純なものだ。初速をAとして、加速度をVとすると、T(時間)における加速度はV=Vo+AT だ。
表現者は表現のうちに「加速度」を導入している、というより、表現というものはある運動量(対象)に対する加速度(的なもの)だということが出来る。前述したようにベクトルの合成でみると、表現は対象に向きと速度の運動量を与えるものといえるが、もちろん、対象それ自体が変化させられているワケではナイので、表現者(主体)が対象をそのように観測したものを、表現したものということになる。この加速度が表現者の心的表出だということはいうまでもナイ。

2012年3月24日 (土)

続・恋愛的演劇論(実践編)・1

能楽を例にとって演技を論理化していくのは、私が能楽に詳しいということではまったくナイ。ただ、端的にワカリヤスク説明しやすいという理由以外にはナイ。下手の横好きどころの話ではなく、ただ、舞台に立って衣裳を着け、役らしいものを演じて(演技してではナイ)いる若い(あるいはある程度の年齢の、あるいはもっと齢を過ぎた)人々のいわゆる「カラオケ演劇」は、勝手にやってもらってかまわないのだが、それを基にしては、演技については解説しづらいだけだ。何故、そうなのかということをひとことでいっておけば、それは、そうしている人々の演劇(演技)対する錯誤からきているし、その原因は、それらを教示、教授した者の責任による。ところで、演技者の多くに能楽のことを話し始めると、怪訝な顔をするので、能を観たことはナイんですかと訊ねたことがある。観たものは皆無だった。私も(能楽は)さほど観る機会には巡り合っていないが、まるでナイのでは話は前に進まない。そこで、どんな芝居を観ているのかと訊ねると、他の仲間、友人の劇団、あるいは出演する舞台といしうのが圧倒的に多かった。別役さんや唐さん、渡辺えりの芝居どころではナイ。野田秀樹の芝居すら観ていない者が殆どなのだ。1年間、演劇の専門スクールに通っていたという者を歩かせてみる。稽古場を右から左へ。歩けない。歩きはするが、ただ歩いているだけだ。立たせてみる。ただ立っているだけだ。ただ横断歩道に立ち、横断歩道を渡って来るようにするだけだ。私はもう殆ど舞台を観にいくことはナイが、それは、そういったことがストレスになるからだ。カラダが創られていないので(といっても訓練して創れといっているのではなく)、演技者が自分のカラダというものを知らずに舞台に立ち、また、舞台というものがどういうものかワカラズに舞台に立っているので、見苦しいだけで、それだけで、目を閉じる。すると、下手な戯曲が台本化されたせりふが耳に飛び込んで来る。ここでも、私はつんぼじゃねえんだからと、いいたいくらいに、演技者は大声を出しているだけだ。演技など観なくとも、立たせるか歩かせるかさせれば、その演技者の力量は察しがつくくらいはこの業界で暮らしているものだから、銭を出して、劇場まで足を運んで、ストレスで気分悪くさせられるなどというのはたまったものではナイ。「衣食住足りてやりだす習い事」という川柳がある。そういう輩のいる一方、「何もかも足りぬの逃げ場が習い事」という皮肉な川柳もある(この場合の「の」は名詞)。つまり行き場のナイ、この平衡系、線型な世間(マスコミや、御用達コメンテイターのコトバでいえば「閉塞した」になる)において、演劇の現場(ユニットやプロデュース、劇団)に行って芝居していると「ナニカしているような気になる」のだ。しかし、この「ナニカ」は否定的なことばかりではナイ。「ナニカ」そのものは平衡系でしかナイかも知れないが、かならず、コヒーレンスな情況が産まれる。個人がひとつのエネルギーとしての「量」を持っているとき、それを「ゆらぎ(~)」として書けば、「~」は、別の個人の「~」と干渉することがある。そういうコヒーレントを自覚するか否かで、自分たちのやっている運動の作用というものに気づくはずだ。つまり、運動量αは作用<α> として、ある「質」に転換される。本来が、エントロピー(熱量の第二法則)によって拡散(平衡)しかしなかったものが、「~」の干渉によって増幅し、それが、近隣に影響を与えてさらに増幅される。それらは、舞台上の個々なるものだけではなく、観客席の観客という偶然の「関係」へと伝播する。私たちはいまのところ、こういった表現の現象を信じるしかナイ。

2012年3月20日 (火)

続・恋愛的演劇論・10

メモだけして、書き残したことを、まとめて書いておく。
○システムやらメソッドやら、演技論やらワークショプの方法論やら、にはいつも観客は置き去り(蚊帳の外)にされているような感じがする。演技は観客を何処かに連れ去っていかねばならないのに。
○「生産=消費」というマルクスの経済学の土台と、同じマルクスの自然哲学である「表出=疎外」を等価原理として扱っていいのだろうか。それよりも、熱力学の第一法則と第二法則として考えたほうがイイのではナイか。つまり、固定的でナイにせよ、その何れかは「質」であり、いずれかは「量」として。で、あるならば、コヒーレンスとして捉えなおすことが出来るのではナイか。マルクスもエピクロスを評価しているではナイか。
○スタニスラフスキーのいう「超課題」と「貫通行動(一環した論理行動)」は、いくら読んでもワカラナイ。幾つかネットで検索したが、「これだな」という解説をしているのはなかった。ストラスバーグはのっけから、こいつは棄てている。そこから類推して、これらの概念は、ソビエト-ロシアの歴史的芸術論問題にしか過ぎないのではナイかと、漠然と、そう感じている。ちょうど、革命前後だったからな。
○「資本」というのは「剰余価値」の搾取から生じたものではナイ。資本をそう考えること自体が誤り(非人間的)であるという論理の展開が『資本論』ではナイのか。
○これだけはいえる。演劇を堕落させたのは観客だ。彼らはカラオケのように演劇に群がり、舞台に上がり始めた。またそれらを演劇の普及だと勘違いした文化屋の猿たちも同罪なのは当然のことだ。私たちは猿ではナイ。ホモ・サピエンスという人類だ。演劇は、永い氷河期を、千人に満たないホモ・サピエンスが生き延びた希望から産まれたものだ。彼らは、「喜怒哀楽」を「意識的」に表してみせることが出来たのだ。「喜怒哀楽」を「意識的」に表してみせること。これ以外に演劇の基本となる定義などはナイ。
○「現実はそうはイカナイ」というコトバがあるのなら、虚構というのはある「理想」ということになる。
○こんなことを毎晩考える、毎日書き込むのは、もうイイカゲンにして、早いとこ、カレー屋をやろう。『カレーの100皿』が店名、キャッチ・コピーは「わたしをカレーに連れてって」。一皿500円。営業はランチのみ。100皿売り切ったら終了。空いた時間は、一杯100円のコーヒーの購入で、ミーティングルームとして開放する。たしかに、毎日々々、カレーをつくる日々だろう。しかし、こんな七面倒くさいことを毎日考えているよりはマシだ。「今日の昼は[わたカレ]にするか」てなふうに客が思ってくれればナア。

任侠映画のパロディ

まず、パロディというコトバを定義しておく。辞書に書いてある通りだ。「有名な作品の特徴をたくみにまねながら、それを滑稽に、また風刺的・嘲笑的に作りかえたもの」。ところで、任侠映画のパロディは創れるのだろうか。DVDで借りた『現代任侠史』(石井輝男監督、橋本忍脚本、高倉健主演)は、いくら、かの石井輝男が監督で、かの橋本忍がホンを書いたものであっても、ひょっとすると、この奇才監督と有名脚本家は、任侠映画のパロディを創りたかったのではないかとも思えるのだが、ワルモノ暴力団がいて、政界の黒幕がいて、対立する暴力団があって、どちらにも、マトモな侠客がいて、そうして、カタギになった元ヤクザがいて(これ、健さんネ)、その男を好きになるジャーナリストの美女(これは梶芽衣子さんネ)がいて、ついに、健さんが殴り込みに行くことになって、梶さんが「いかないで~っっっ」と号泣して、という任侠映画の王道になるのだ。とはいえ、このスカスカの任侠映画をみても、ハナから何も彼もワカッテいても泣くのだ、あたしゃ。だって、泣くために観てんだから。だいたい、任侠映画というものそのものが、パロディなのだから、写像を写像出来ないように、パロディをパロディすることは不可能なのだ。たとえば、水戸黄門が、時間になったら印籠を取り出すところで、亀の子タワシを取り出しても、誰も笑わないのと同じことだ(もし、そういうコントが存在するのなら、そのコントの創作者は笑いの何であるかがワカッテイナイ)。印籠からハトが出ても同じことだ。「えっ、どういうこと」なんて声がするので、いっておくと、あの印籠が出て「ははぁーっ」とみなさんが平伏すということ自体がパロディなのだ。もし、任侠映画のバロディ(のようなもの)を創ろうとするならば、ゾンビものにするしか有り得ない。殴り込むところまでは一緒で、殴り込んだ組の連中がゾンビだったというふうにすれば、急転直下、話は変わる。というのも、ゾンビ映画というジャンルは本来、存在しないからだ。 どんなジャンルの映画にせよ、ゾンビを出せばゾンビ映画となる。ゾンビが出現するのに根拠も理由も必要はナイ。ただ、出ればイイ。そこがゾンビ映画のオモシロサなのだから。任侠映画は滑稽で、風刺的で、嘲笑的なのだ。その観点からいえば、『男はつらいよ・フーテンの寅さん』シリーズはれっきとした任侠映画だ。私は私自身が私のパロディだから、滑稽だということくらいは自覚している。曰く「劇作家なんてのは、みな、そういう類です」

2012年3月18日 (日)

続・恋愛的演劇論・9

『聴覚言語発生説』についてフイルド・ワーク(何処かの壁面に穿った記号があるかどうかを調査)することは、私にとっては不可能なので、これは机上の論だ。ただし、空論とまでは卑下しないでおく。もし、この壁面に穿った痕跡が、○が〇になったりしていたとすれば、そこには違った意味が与えられるはずだ。これが△、▽、◁、▷、になってくれば、みおぼえのある楽曲のscoreとよく似たものになる。crescendo<、decrescendo>、♪、やppp ピアニッシッシモ、pp ピアニッシモ 、p ピアノ 、など楽譜も一つの音楽の文字だ。ただし、あくまで「音楽の」であって、文字というのは、ここに書かれているような書き文字をいう。似たものは数式の記号の中にも現れる。その宇宙人の描いたような記号群をみて、そこで私たちはたいてい数学を諦めるのだが、h→0という簡単な数式なら微分方程式にも登場する。hはhour(時間)のhで、矢印の先に0があるということは、時間を限りなく0に近づけるという意味だ。私にとって微分方程式を解けといわれても出来ない相談だが、y=f(x)のfがfunction(操作)だということがワカッタら、xを操作して、この場合は(input)入力して、出てくるもの(output)がyと等しいということがワカル。この手のものは、携帯メールの絵文字と同じようなものだ。論理というものは、せいぜい当初は固有の(自分だけの)ものだから、自分がワカルように、勝手に数式をつくることも出来る。たとえば、演技においてブレヒトの異化とは何ですかという質問をたまにされるが、同化(こっちはスタニスラフスキーや、リトラスバーグ)とブレヒトの異化を考えるとき、異化を「イカ」にして、同化を「タコ」にして、よく似ているがチガウという記号を等号(=)に似せて(≡)にしたり(∥)にしたりすると、イカ∥タコ(あるいはイカ≡タコ)と書ける。異化も同化も演技に含まれる方法論と演技者との関係をいったもので、ここでその詳細な解説は字数を割くのでヤメルが、そんなもんだと思っておけばイイ。また∧(山記号)は、物理学ではハットと読まれ「作用素(量子力学における運動量)」を表すのだが、測定値と運動量の区別に用いられる。これは♨(温泉マーク)が温泉記号と称され、地図において温泉の位置を示す地図記号と同時に、公衆浴場施設、古くは連れ込み旅館を示す記号にも用いられたのと同じようなものだが、先日、故人になられた吉本さんは、文章の中で、このハット記号を多用されたことでも知られている。おそらくは東工大の出身である吉本さんにとって、その文章(の熟語)は作用素として他の同義言語との区別となっていたものと思われる。
「伝える」「伝わる」については、このアト、続・恋愛的演劇論(実践編)に引き継ぐつもりだが、もう一つだけ、よく訊かれるのに「即自的」と「対自的」の区別がうまくつきにくいというのがあるので、説明を加えておく。この区別がつきにくいのは、どちらも自分を相手にしているからで、それなら「即自」というのはけっきょくは「対自」とどうようではナイのかというところに発している。「対他」は対象が自分とは他にあるのでワカリヤスイが、「即自」と「対自」は対象が自分だ。最も簡単な具体例を示すとすれば、私たちは呼吸をしている。これはふだん意識されるものではナイ。しかし、心臓の鼓動とは違って自分の意志で途切れさせることが出来る。この呼吸が自然に行われている場合を「即自的」とするならば、意識的に呼吸を止めた場合は「対自的」になる。自らを対象としない「自ら」の場合は「即自的」、自らを対象とした「自ら」の場合は「対自的」。ともかくも「即」なのだから、恋心において、一目惚れというのは「対他的」のようにみえるが、ほんとうは「即自的」だといってもイイのだ。

2012年3月17日 (土)

続・恋愛的演劇論・8

「私がいいたい」だけなのだから、ここからは私の単なる思い込み、もしくはトンデモ学説になることは、当人の私がイチバンよく承知している。それを踏まえた上で述べるならば、獲物の所在(位置)を報せるのに、石を壁面に打ちつけるという「音」を出す行いは、壁面に痕跡を穿つことになる。それがたとえば○であったり-であったり・・・であったりするとしよう。そうすると、次の見張り役は、どういう場合に○であり、どういう場合に-であるのか、その痕跡を「音」と対応して観ることが出来る。と、ここまでならば、単に言語道具説と同だし、言語と対象は対応するという言語学派の説と同じだ。ともあれ、ナニカを伝えんとしたことにはチガイナイ。それが、狩猟という労働のために行われていようが、そうでなかろうが、一向にかまわない。ところで、これとどうようのことが、穴居する洞窟内においても行われることがあったとする。石を叩く、木を叩く、石を石に打ちつける、木を地面に打ちつける。このとき、そうすると「音」が出るということは、原始人類にとって、どういうふうに認識(意識)されたのか。音が音波だということは小学生でも知っている事実だが、原始人類たちは、音よりも、まずその音を出す「石」や「木」や「地面」を注目(意識)する。おそらく「音」を出す、それらのものを凝視したに違いない。ここで音を観る(視覚化する)という意識が生まれる。このとき、歯の退化によって、口腔は広がり、咽頭から音声を発するということはもう原始人類には可能になっていたはずだ。そこで、石の音に似せて「コン」という音を「オン」と出してみる。(これを難しくいうと、対他的なものから対自的なものへということになるのだが)。それまでは泣いたり叫んだり怒ったり喜んだりしたときに出ていた「自然音」が、石を叩く音と同じように出せることに気づいたろう。そうして、木を垂直に地面を打って出した音は、足という身体を使って「踏む」ということで、類似した音が出せると気づいたろう。手を叩けば、石や木を互いに叩く音とどうようの音が出る。しかし、まだコトバの獲得には遠い。彼らは音を獲得したのに過ぎないのだから。やがて、石を叩く者に対して、それに合わせて手を叩き、それを聞いたものが、足を踏むという、意識が目覚める。そうして、それにさらに付け加えて喉から「オンオン」という声を発する。この「オンオン」が悲しみのときのココロの意識を意識して表出した(難しくいうと外化した)ものであれば、(類的に悲しみに同化出来うる)その場で足を踏んでいたものは、踏んでいる足の動作で悲しみを表すという意識的な動作をこころみることになる。もし、そういうところまできたとしたら、ほんとうに悲しくナイときであっても、その身体動作は悲しみを表すものだという、普遍性を獲得することになる。これをダンスの初まりだとすると、個々それぞれに、その身体動作は同じでありながら、ある固有性を獲得することになる。つまり微妙にチガウか、激しくチガウか、その関数の座標(カラダ・ココロ)の表出を微分していった、速度、加速度における瞬間的な表現という領域に辿り着く。このとき、音声の「オンオン」も単なる「オンオン」だけではナイ、さまざまな表現を持つに至っていたに違いない。(これが、石で壁面を穿った痕跡と結びついたとき、初期の書き文字が生まれたことになる)。かくして、「伝える」「伝わる」の初期的な第一歩が始まる。これを『聴覚言語発生説』という。

続・恋愛的演劇論・7(一部改筆)

私たちはナニをどうしたか。まず、演技というものをカラダ(形象-形態表出)とココロ(心象表出)というものに分けた。分けてそれを直行する軸にとって、座標を求めた。この座標が演技というものを表すといってイイ。(カラダ・ココロ)という座標だ。その度合いを示そうとすれば単に(3・5)と記せばイイことになる。さらにこれを動点と考え、空間軸と時間軸という関数座標に微分した。つまり二次関数(曲線-動転の動きは一定でナイので)として微分(演技者の瞬間の速度を求める)し、導関数とし、さらに微分して、加速度をその演技の中に含めた。能楽師の演技を速度と加速度というカラダの運動に置き換えたのだ。これは運動能のやることだ。もちろん、演技は運動能の技術だが、それは知覚精神現象を知覚精神現象に移すのではなく、心的現象を知覚現象の運動に置換する技量をいう。ここが、古今東西わんさかいわれてきた、さまざまな演技論と十歩も百歩もチガウところだ。では、この演技論をもう一歩進める。「伝える」ことが「伝わる」のはどういう経路を通って成されるのかを考える。恋しいひとに自らの思いを伝える、それがそのひとに伝わる、それがどうしてなのか。だから「恋愛的演劇論」なのだ。ここで、五感というものを問題にするとき、私たちは、未だコトバという伝達方法を持たない、私たちホモ・サピエンスの原始の人類が、「伝わる」ということをどういうふうにして感覚したかに思いを馳せねばならない。触覚は直接的だが距離としては最も伝達において短い。味覚もそうだ。嗅覚はやや距離をおけるが、遠い距離を伝わるのは視覚と聴覚だ。この「観る」と「聴く」は、現在の演劇においても重要視される、というか、演劇はほぼこの二つの伝達の送信と受信によって成り立っている。このことから、知覚的に「伝える」「伝わる」というもののうち、視覚や聴覚は、幼児が触覚や口唇による味覚や嗅覚で事物や事象を感覚するよりも、発達してくる段階が遅いと考えられる。この遅延は、視覚や聴覚が、知的な作為的な営為によって獲得されてきたということを意味する。視覚も聴覚も、遠いところのものを「伝える」ことが出来る。この「伝わる距離」の発見は、原始人類にとって、コトバに近づく第一歩だと思える。考えてもみたまえ、私たちは恋しいひとに、最初から身を擦り寄せたりはしない。まず、遠くから恋は始まる。その恋心はやがて、恋しいひとに近づいていく。距離を縮めていく。
「書きコトバ」と「音声言語」のどちらが先に発生したか、どちらを先に原始人類は獲得したかについては諸説あるが、私は先の観点から、それらは殆ど時間差はナイが、「書きコトバ」のほうが先だったのではナイかと考えている。これは従来の言語発生学の所見とはまったく逆のことをいっている。コトバ(言語)が視覚と聴覚によって発生したというところに疑いはナイが、直立二足歩行以来、火の扱いを手に入れた人類が、固いものを柔らかくして食することが出来るようになり、次第に歯を退化させ、口腔を大きくもてるようになると、咽頭から口腔への振動による音を出せるようになる。しかし、それは単純な音でしかナイ。さて、同時に両手で道具が持てるようになった人類は、石と石を叩き合わせたり、木を摺り合わせたりして火を起こすのだが、聴覚はこの音を聴く。石と石を叩くと「音」が出る。木と石とではチガウ音が出る。いま、人類の一団が狩猟に出ることにしよう。やみくもに歩くのではなく、どの辺りに動物がいるか、高所に見張りが立つとする。このとき、動物の群れを発見した見張り役は、それを狩猟の一団に報せるために、石で、崖の壁面を叩くとする。獲物が前方になら一回、右方なら二回、左方なら三回。移動しているときは小刻みに、というふうに。それを聞いて狩猟の一団は自分たちの歩く方向を決める。さて、私がいいたいのはここからだ。

自由主義とはなにか

流山児祥のオフィシャルブログ3/16付けで気になったことを一つだけ。
/その後、吉本さんは「時代と寝る思想家」へと突き進んでゆく。ま、日本全体が浮かれてゆくのだが。全てが、弱肉強食の新自由主義へと雪崩を打って進んでゆく。情報帝国の時代へと。ペラペラの高度消費社会を評価した80年代、吉本さんは、たけしを評価し、コム・デ・ギャルソンをまとって颯爽と登場した。「あの」あたりから、オレにはもう、吉本さんなんてどーでもいいやになってしまった。/
当人がどうでもいいのだからしょうがナイが、「新自由主義」というコトバが何を意味するのかは、私にはワカラナイ。そも、「自由主義」というのはアメリカ合衆国プロテスタント国家の専売特許であって、この場合の「自由」というのは「神の下に自由である」ことを意味している。つまり合衆国は神の国であり、国民はその僕であるから、神に逆らわぬ限りは「自由」だということだ。この「自由」は「罪の意識をもたなくてイイ」というところにまで発展する。アメリカ国民が、ヒロシマ・ナガサキにおける無辜の民の惨殺において、殆ど罪の意識を持っていないのはそこに根拠を持つ。アメリカは神の国だからこそ赦されるのだ。この路線をいくら拡張しても、単一宗教のナイ(天皇制がそうであったときは、システムとしては、日本国民は天皇の僕であり、天皇には一切の責任がナイというヒエラルキーをもっていて、これはアメリカ・プロテスタンティズムとのアナロジーになる。大西巨人『神聖喜劇』のテーマはこれだ)日本に自由主義などというものがあるワケがナイ。単純にコトバのニュアンスを享受、吹聴しているのが日本国民ということになる。
/ヴ・ナロード!常に「大衆」と共に・・・・が、本当に吉本さんは「大衆」と共にいたのだろうか?反核異論以降3・11まで吉本さんのコトバは「大衆」に届いていたのだろうか?んなことなどどーでもいいか・・・/
当人がどうでもいいのだから、これもしょうがナイが、『反核異論』『ハイ・イメージ論』辺りから、吉本シンパの吉本離れが始まったのはたしかなことだ。コム・デ・ギャルソンや「時代と寝る」に関しては、埴谷雄高との論争で決着はついている。要点は「大衆」を理論にどう繰り入れていくか。これは吉本さんの情況論のかなめだったことを読み取れたかどうかだと、私は考えている。大衆が浮かれていたのなら、浮かれている大衆の現在を諫める、たしなめる、訓戒するのではなく、その「いま」に思想を対峙させるしか、思想の思想たる所以はナイ。

2012年3月16日 (金)

続・恋愛的演劇論・6(一部改筆)

「以心伝心」などというと、まるで禅問答の(あるいは禅の教えの)中軸のように考えられがちだが(確かにでどころはそうらしいが)、この「心を以て心を伝える」は、半分正しい。半分というのは、このコトバの半分が誤解されていることに因る。唯物論者からみれば、このコトバはまるで、身体から「ココロ」が抜け出して、送信されて、相手の「ココロ」に受信されるかのような観念論として、排除される。何故なら、ココロも愛とどうよう、手のひらに出して、これがそのココロだす、と、みせられねえもんやからや。しかし、みせられるモノばかりが、存在するモノではナイ。存在するのにみせられないというのは、作品によって違うモザイクの大きさの中に隠されているモノだけではナイ(年代によってもチガウが、新作のモザイクが小さいとは限らない)。閑話休題。能の演技は、その能役者の意識やココロを伝えているのではナイ。能の演技者が伝えているものは、その能の演目の「主題となっている心」だ。能の台本を読むと、それがあまりに粗筋だけの、何の文学性も無いことに驚かされる。(とはいえ、失礼ながら、私は三島由紀夫氏の『近代能楽集』を読んで面白いと思ったことはナイ)。「伝えているもの」を「表現しているもの」と訳すと、その表現の表出に該る部分に最も近いのは、「うつ病の患者が、なにも出来ずにじっとしている」姿だ。うつ病の患者はときに苦しそうな顔をするが、たいていは「無表情」で、彼がナニをしているのかというと、「なにも出来ずにいる」ということを「している」ということになる。能楽の演技の端緒は、この「なにも出来ずに在る」という存在の獲得から成ると考えてイイと思う。面によって表情を封じられ、所作は一挙手一投足を決められて拘束されている中で、何を以て、主題であるココロを伝え得るのか。私は唯物論者ではナイが、身体からココロが抜け出すなどとは考えたことはナイ。そうすると「意識」はココロの外にも存在出来ることになる。これを誇大妄想していくと新興宗教に化ける。能楽の演技者が行うのは、やはり「カタチ」だ。そうでなければ、六百年も伝承出来るワケがナイ。演技表現の表出の仕方は二通りあって、一つを「形象表出(これはカタチ)」、もう一つを「心象表出(こっちはココロ)」という。これはどちらかが一つだけ存在するのではなく、ちょうど直行する関数の軸のように交わっていると想像してもらえばイイ。この座標にあたる部分が、表現における形象と心象の表出の度合いを示す。これは、ずいぶんむかしに、最初に演技論を考えたときに辿り着いたひとつの答えだった。演技はココロでもカタチのどちらかではナイのだ。その双方の座標なのだ。しかし、演技は止まっているものではナイ。その動きを現すものとして、座標を結んで直線をつくる。この直線が動き(速度)ならば、軸の一方は時間軸であり、一方は空間軸ということになる。演技の動き(速度)は一定ではナイから、リニア(一次関数)ではなく、曲線(二次関数)になる。つまり、形象表出(カラダ)と心象表出(ココロ)の関数y=f(x)という関数に対して微分を試みたことになる。微分するというのは瞬間の速度を求めることを意味する。どれだけ先程の曲線が曲がっているか、その勾配を測定する。導関数によってカラダとココロの表出の瞬時における速度を求めようというワケだ。能楽の演技にこれを当てはめた場合、カラダの瞬時の速度から、どれだけココロの表出がうまれるかを観ようということだ。さらに関数を微分していく。すると「加速度」を求めることが出来る。速度も加速度も目にみえるものだ。そうすると、能楽の演技は、極めて瞬時の時間における速度と加速度のカラダの動きを用いたココロの表出を表現したものということが出来る。これは、「なにも出来ずに在る」をゼロ(0)と考えると、そこから形象表出と心象表出を関数として「動きだした」ということになるが、もちろん、それだけではただの運動にしか過ぎない。しかし「伝える」のはここからだ。

吉本さんを葬(おく)る

冬の旅にゆくひとありて風寒し緑なる芽はいまだめざめず

この地図を持てといわれし十八歳迷いながらもよくぞここまで

はなうたのひとつも唄えさよならは似合わねえなの微笑みにむけて

試写『MY HOUSE』

堤幸彦監督のこの作品は、「ひとの生き方」というよりも、もっと率直に、ホームレス(というか、公園生活者)愛称スーさん(いとうたかお)の「家庭という生活の仕方」というものを描いたものだ。だから、物語のプロトタイプさと、人間のステロタイプさは、あまり問題ではナイ。スミちゃん(石田えり)の造形もあってか、私は途中でフェリーニの『道』をふいに思い浮かべてしまったが、そのせいか、潔癖症の母と厳格さを装っている父を持ち、進学塾に通う多感を胸にしまいこんだ少年ショータが、スミちゃんを金属バットで殴るシーンは、おこがましくいうのなら、私なら、ショータが金属バットを振り上げて、両者が睨み合い、ショータはついに殴ることは出来ず逃げ出して、その行為をこっそり観ていた悪友がコインランドリーで、ショータの代わりに遂行する、というふうにしたろうと思う。でないと、そのアト、スミちゃんが、コインランドリーに夜中に出かけていくという希なことをする理由づけがつけられない。少年を蹴散らかしたからこそ、うきうきと出かけて行く、としたろうと思う。もう一つだけ、スーさんならば、スミちゃんを医者に診せたはずだ。おそらく世間の人々は、ホームレスも気楽でイイが、病気や怪我になったらタイヘンよね、と、思っているだろうが、医者、病院、救急医療施設は、治療してくれるのだ。もちろん、銭のとれる相手ではナイことは百も承知だから、のっけからさっさと診て、お早くお帰りねがうのだが、つまり、面倒な患者なのだが、そうしないことには仕方がないし、ホームレスのほうもまた、そのことはよく知っている。あまり何度も倒れたり、癌だったりすると、それなりの施設に入ってもらうということになる。とはいえ、これは「家庭論」の映画だ。途中、何度もショータの塾がインサートされるが、もちろんのこと、授業料の高い塾には、それなりの賃金をもらった優秀な講師がいる。そこで学べる小学生、中学生、高校生の生徒は、高額所得者の子供たちだ。彼らはそうして大人になり、家督となり家業を継いでいく。この国が相も変わらずなのは、そういう循環に一因が在る。ついでにいえば、スーさんとスミちゃんのMY HOUSEは、私の住んでいるスラムアパートより住みやすそうに感じた。そういうふうに観客に思わせただけでも、この映画を堤監督が撮りたかった理由に納得がいくというものだ。

2012年3月15日 (木)

続・恋愛的演劇論・5

演技というものが、舞台とういう「空間」における、ある運動(作用)であるとすれば、それは、空間における「速度」というカラダの動きと向きが加わったベクトルとしての力学で決められることになる。つまり、知覚精神現象における運動脳の働きとして決定されることになる。こういった演技論やメソッドは数限りなく考案されてきたように思われるが、その何れもが、たいていは演技者によって「役立たず」になってしまうのは、おそらく次のような理由による。スタニスラフスキーを受けて、リー・ストラスバーグに継承されたものに「五感の記憶」というメソッドがある。「五感の記憶」とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の記憶のことだ。これを働かせることによって、演技に結びつけようということなのだが、また、これが、メソッドの基礎訓練なのだが、これらを端的に現しているものに「ウイスキーの飲み方」がある。あるいは「熱いコーヒー」でも構わない。これを課題に訓練を行う。このときにメソッドの特徴的なことは、さも「ウイスキーを飲んでいるようにみせない」こと、「熱いという顔をしながらコーヒーを口にしない」ことというのが、いわゆる紋切り型との決別というワケだ。この記憶はまた「歯痛」などの訓練にも応用される。歯が痛いとき、如何にも痛そうにしないこと。その記憶だけを頼りに想像を働かせて、痛みを我慢しているようにみせると、リアリティがうまれるというワケだ。このもっともらしいメソッドは、難易度の高いものとされているが、それが難儀なのは、演技者の想像力や記憶の貧困さからくるのではナイ。五感という身体感覚をすべて知覚精神現象としてとらえているところが、マチガイなのだ。たしかに、舞台において演技者は、腹など痛くもナイのに腹が痛いと演じなければならないことがある。好きでもナイ女優の恋人にならなければいけないときもある。それらは運動脳によって表現するしかナイものだ。笑いたくもナイのに笑うというのが、運動脳だ。たとえば、恋の演技をしなければならない場合、そのときの五感の記憶というのは如何なるものか。リアルな恋愛表現、そもそも恋のリアルというのはナンなのだ。そういうことは結婚詐欺師に訊ねるのが最も手っとり早いのではナイのか。「恋は現実においては最大の嘘である」。ある切実さを伴った虚構にしか過ぎない。精神医学のある実験で、運動脳の欠損した被験者の患者に「笑ってごらんなさい」とmissionしても、笑わないが、ほんとうにオモシロイもの(たとえばコントや漫才)をみせると、ちゃんと笑うという報告がある。このとき、被験者の患者は、運動脳の機能をマヒさせてはいるが、感情脳としての機能は働かせることが出来ることを物語っている。つまり、メソッドの欠陥は、心的現象であるものを知覚精神現象として捉え、運動脳でみせられると考えたことにある。コトバを変えていえば、本来は心的現象であるものを、知覚精神現象として認識したところから演技を組み立てているところにある。これを初手から否定したのが、能だ。能面は「どういうふうにも、観るがわの気持ちによって観ることが出来る」ためにつけるものではナイ。演技者の「表情を封じる」ためにつけるものだ。表情がたった一つの能の面(おもて)においては五感の記憶など何の頼りにもならない。つまり、五感という「現実」を虚構化するさいに、その記憶などはアテにしないのだ。では、何によって、能は演技表現をするのだろうか。

『CUT』を観て

偏執や妄執と愛とはチガウ、と思う。愛というものがどういうものかは、よく知らないが、それくらいのことはいえる。映画『CUT』(アミール・ナデリ、監督、西島秀俊主演)は暴力団の取り立て屋だった兄が自ら組に借金を残してチャイナ・マフィアに殺され、その返済を組に迫られる映画監督秀二が、そのカタをつけるために兄が殺された組のトイレで殴られ屋をして、銭をつくるという粗筋だが、秀二は街中でラウドスピーカーを手にして「映画は死んだ。もう一度あの芸術としての映画を」とアジテートし、溝口健二や小津安二郎、黒澤明の墓参り(墓に抱きつくなんてフェチでもある)をするような、常人から観れば「あっちのひと」だ。殴られながらも、一発ごとに映画のタイトル、製作年、監督名を口にしてそれに耐える、という寸法だ。と、こう書けば、この映画の企画がオモシロソウだということはワカル。しかし、如何せん映画には著作権、版権があって、いちいち映像の断片を流すワケにはいかない。最後の100発になって、次々と往年の名画のタイトル、監督名、製作年が字幕で出てくるのだが、ほんとうなら、ここに映像の断片を入れたかったことだろう。また、ウォルト・ディズニー製作関連のものは一切出ない。これはアタリマエで、たとえば、私は新作戯曲の資料のために『メリー・ポピンズ』の「チムチムチェリー」の歌詞をネットで捜したが、予想どおり、なかった。かつてあったものは削除されたそうで、たいていそういうことをすると、損害賠償問題になる。こういうことが、過去の名作を観ることの出来る機会を持てない要因にもなっているはずだ。最近では、愛知県の文化振興事業団が『ゴドーを待ちながら』を二人の新人演出家にそれぞれ1時間の作品にして上演する企画を進めたが、ドタキャンになった。上演権を持っている外国のゴドー関連のほうから、1時間にcutして上演することは不可とキツイ(まあ、アタリマエですが)返答があったからだ(つまり、ゴドーは来なかったんですナ)。こういう、常識でも見当がつくことを平気でやってしまう、事業団の無知もいまさらだが、まあ、それはイイや。閑話休題。『CUT』は、ホンの理路がナイ。理路整然どころか、場当たり的で、そもそも、最もタイセツな主人公と兄の関係が描かれていない。たった一枚のツーショット写真だけでは無理だろう。兄-秀二-映画、この関係がまったく書けていない。よくもまあ、こんなホンで映画を撮ったなと呆れるくらいた。秀二は「いまの映画はクズだ。映画は芸術だ」と叫ぶが、そういう場合、目には目を、映画には映画でもって応じなければ話にならない。この映画は芸術なのだろうか。私はクズとしてしか観ることが出来なかった。殴られ屋で、あれだけ殴られたら命に関わるのだが(あるいは、鼓膜が破れたり、眼がつぶれたりして、映画なんか撮れなくなると思うのだが)、まあ、それはフィクションとしてギリギリ許容するとして、殴られ屋として、トイレに立っても、どうしてあれだけ毎日、彼を殴りに来る「お客」がいるのだろうか。「お客」が暴力団だからか。それなら大間違いだ。暴力団は、銭にならない暴力など行使しない。暴力が商売なんだから。これはフィクションとしても、単なる嘘にしか過ぎない。再度いっておく、こんな映画こそクズだ。

2012年3月12日 (月)

『ザ・シェルター』『寿歌』二本立て、他

加藤健一事務所の二本立ては、当方がついうっかりしていたため、招待の日時を指定しておかなかったので、慌てて追加公演の予約を入れて日帰りで観劇した。実に上手い構成の二本立てで、これは演出(大杉祐)の手練だと思う。もう少しいうと、「演劇をよく知っている」、あるいは二つの作品をよく察知しているという、テーマがまったく違った作品でありながら、コード化出来るという、その勘の鋭さに敬意を表すということだ。加藤さんのサービス精神については、もう何もいうことはナイが、日下由美さんの存在感には、あらためて「新劇」というものが、けして単に輸入された「演劇」でのみ成立しているのではナイということを、感心しながら受け止めた。朱色の雨合羽で通り過ぎるだけの演技に、圧倒されたと具体的にはいっておく。占部房子さんには、舞台が終わってから楽屋にほんの少し挨拶に訪れて述べたことを繰り返すことになるが(だいたい、私のような観客は、観客席にいる限りはイイ観客とはいえない。同業者だからだし、こっちは30年それでメシ食ってるもんだから。だから、私は、終演してからの楽屋を覗いてのやりとりのほうがイイ観客になるのだが)、演出からどういう演出プランが、どういう演技指導があったのかは3割くらいしか見当はつかないが、「熱演」を「演技」するというキョウコによって、役者が芸人の役を演じるという困難を、思い切って演じてみせた。熱演とか、「私をみてよ演技」には閉口する私なのだが、「いましか演れナイことをヤルんだ」という潔い姿勢に、日下さんとは違った役者の「生きざま」を観ることになって、私は至福だった。『寿歌』は~伝説の戯曲~などといわれるが、私本人は、まったく伝説ではなく、現役で、やはり筆一本の在野売文業で生きている。
少々ハードなスケジュール(若い頃には、それがふつうだったんだけど)をこなしていたのか、今朝は(ゆんべは12時前に寝たのに)眠くて布団から抜け出せず、12時過ぎに起きて飯つくって食って、机に向かったがまた眠くて、夕方には観たい試写(『マリリン7日間の恋』)があるので、もう1時間ほど寝るかと布団に入ったら、次に目覚めると、もう5時前で、試写に間に合う様子でもなく、これは、映画館で観ることにした。そのアトは、東京の21世紀フォックス30周年記念作品の執筆に集中して、四分の三を書き上げてしまった。たいていの流れとプロットは前夜のうちに考えておいたので(いつもそういうふうに仕事はしているのだけど)、早いといえば、早いのだ。眼が殆どダメになってきているので、一日の眼を使う仕事時間が限られていて、夜の9時過ぎからは、独り酒になって、独り酒は心身に良くないとはいわれるが、私の場合まったくそうではなく、そこらあたりから2~3時間は、シングル・モルトの水割りを4杯くらいの沈思黙考の時間になる。この時間に、たいていのことは頭の中で創ってメモしておくので、仕事机の上はメモであふれるが、これで日中の仕事はスピードアップする。
寝る前には、冷蔵庫などの点検、明日の買い出しの予定をたてる。水と米、その他、切らしてはイケナイものは買い貯めておく。独り暮らしだから、寝込んだ時などのためにだ。ともかくひとに迷惑をかけるようなコトは避けねばナラナイ。

2012年3月11日 (日)

マラソンの兵法、或いは実況解説者というアホ

名古屋女子マラソンの中継をテレビで観終わったばかりだ。感想を書く。まず、相も変わらぬ実況解説者のアホさ加減。少なくとも、素人の私たちが観ていることとの相違くらいは述べなければいけない。観た通りのことをいっているだけだ。実況は実況アナだけでいいんじゃないか。たとえば、野口みずきの先頭集団への復帰は、彼女が150メートル離されて、その後、自らの時計に眼をやったときに気付くのが普通ではないか。実況解説者は驚くばかりで、そんなものは、野球で8番バッターがホームランを打ったことに驚いているようなものだ。野口みずき選手は、時計を観て(この映像を見逃してはアカン)、先頭集団との離され具合を観て、現時点の自身の速度と力量から追いつけると確信したはずだ。そこで、追いつくのには、どう走りを立て直せばイイのか、と、そのとおりにやって追いついた。ただ、野口みずき選手の失敗は、実況解説者が前半の彼女の走りについて述べていたように、彼女が引っ張ったカタチになっているのはどうか、などではなく(あれは、彼女なりに、1時間23分あたりで走り抜くには、どの程度のピッチで走ればいいのかという、レース展開の組み立てを考えての走りであったことに、実況解説者はまったく気付いていない。それどころか、彼女の速さに心配までしているという、アホのさらけ出しなのだが)、先頭集団に追いついたアトの、いわゆる仕掛けが早すぎたことに尽きる。このまま、一気にと思うのは、追いついた者の心情としてはワカランでもナイけれど、あそこで、35㎞あたりまで我慢をしていれば、レースは違うものになっていただろう。そういう我慢をして走ったロシアの招待選手が優勝するという結果に、実況解説者は、何も触れない。要するに、最初にレースのピッチが遅いということに気付いて走っていたのは野口みずき選手だけだ。いや、もう一人、優勝したロシアの選手の自己タイムがどれだけなのかにも触れられなかったが、彼女もまた、このタイムなら自己タイムでいずれ追いついて、スパートすれば走りきれると計算したに違いない。マラソンは短距離レースではなく、ある種の頭脳戦だ。単純な駆け引きだけではなく、身体の訓練だけではなく、それなりの冷静な兵法を持たねば、単にそのときの体調やら意地やら根性やら思いやらで、コロコロと一位選手が変わってしまうだけのレースになる。本来、スポーツの分野において、毎度、優勝者が変わるというのもほんとうは奇異なることだ。そんなことになればプロボクシングのチャンプは、毎度変わることになってしまう。三位になった中里選手は、若さゆえにあそこまで走れて、若さゆえに負けた。それについては実況解説者が、ほのめかす程度に暗に語っていた経験の不足というのではナイ。経験の不足などというコトバは、この世界ではいってはイケナイ。経験が重要なら、走れるだけレースに出ればイイことになる。マラソンは長時間の闘いである以上、頭脳戦であり、心理戦だ。実況解説者は、応援団ではナイ。自分がいったことが結果的にマチガッテしまっても(それをおそれて確固たることをいわないのだが)、情況に対して、理にかなった論を展開すべきだ。つまり、もうちょっと、勉強しろということだ。

2012年3月 9日 (金)

続・恋愛的演劇論・4

シンデレラは何故シンデレラだったのか。本名をエラと称するこの娘は、灰だらけになって働く下女の身分だったから、「灰(Cinder)のエラ」でシンデレラと呼ばれるようになったらしいが、そういうことがいいたいワケではナイ。舞踏会に出かけて、王子の目にとまり、ガラスの靴がご縁で、愛でたし結婚。シンデレラ姫であるのは12時までの魔女の魔法ということなのだが、つまり、灰のエラでは、王子とは結婚なんて出来なかった。見初められなかったワケだ。シンデレラが12時までシンデレラ姫であるためには、ドレスやガラスの靴を必要としたワケだ。しかし、王子がガラスの靴を(もし、それが地下足袋であれば眼にもしなかったろうが)持って、シンデレラを捜し回り、ついに出逢ったシンデレラは灰のエラだった。ところが、シャルル・ペローは、王子に落胆させない。この灰のエラを妃に迎えるハピーエンドとする。何故かというと、王子には、灰のエラがシンデレラ姫であった「時」が刻み込まれているからだ。「時間の矢」はここでは意味を成さない。今一度、あのシンデレラ姫となることが出来るという確信を過去の「時間」は与えるのだから。私たちはここから二つのことを学ぶことが出来る。一つは、シンデレラがシンデレラ姫となるには、魔法という「虚構」が必要であったということ。王子は灰のエラに恋をしたのではナイ。「虚構」のシンデレラ姫に恋をしたのだ。よって、虚構は現実と交換することが出来る。これは『贈与交換』の在り方の一つだ。『贈与交換』は投企ではナイ。投資ではナイ。「虚構」と「現実」に関係するナニかだ。もう一つは「時間」というものだ。スタニスラフスキーの演技論である『俳優の仕事』の欠陥は、この「時間」にある。『俳優の仕事』は素人の俳優をプロの俳優にするプロセスを描いているが、つまり、ほんものの名優からその固有性を脱落させて、一般性、普遍性を取り出そうという試みだが、それは方法論としては正しいかも知れない。しかし、そこには「時間」というものが欠落している。曰く「時間をかけないとウイスキーは熟さない」だ。この点では「花伝書」は役者を創る「時間論」だ。ただし、それには一子相伝という条件が要る。シンデレラは「時間」の物語だ。12時まで、という喩がそれをみごとに物語っている。12時までは「虚構」だが、12時を過ぎれば「現実」になる。だが、しかし、ペローはひとつだけ、12時を過ぎても存在する「虚構」を残した。ガラスの靴だ。ガラスの靴だけが、何故、馬車がカボチャに変わるように、元の靴にもどらなかったのか。この矛盾は、「突っ込みどころ」ではナイ。「虚構」の在り方を探る、ヒントだと思われる。

続・恋愛的演劇論・3

以前にも書いたが、釈迦や達磨、そうしてイエス・キリストもまた、地球という天体が球体をしていて、自転し太陽の周囲を公転していたという宇宙の姿(様相)には無知だった。キリスト教の宇宙図はアリストテレスの描いたものだ。仏教の世界観、宇宙観は、いわゆる浄土の構造で、阿弥陀如来(西方浄土)や薬師寺如来(浄瑠璃浄土)など、六人の仏の持つ仏国土が宇宙を構成していたのに、釈迦如来が加わって七人となる。未来にはこれに弥勒菩薩も加わり、時間軸でみると仏は増えていき、どうように空間軸でも、仏世界は増大していく。アリストテレスの宇宙図は否定されたが、仏教世界はそれを「喩」として観る、あるいは私たちの宇宙観とは違う形態としての宇宙観の存在として、否定されているものではナイ。このように、釈尊や達磨の教えは、現在から科学的に観る限り実証不可能とでいうものだし、否定されるべきものであるのに、いまだにその教え(思想)は脈々と受け継がれ伝承されている。これは、その教義、思想、コトバが、ソシュール言語学の提起した「通時性(時代をつらぬいて存在する言語)」と「共時性(その時代に特有の言語)」を有しているとして理解出来る。私の稚拙な考えによれば、ミシェル・フーコーの歴史観はここにヒントを得ているもので、彼自身が「私は構造主義者ではナイ」と述べているのは、つまり歴史に対する観方が従来の歴史主義者と違うのだ。フーコーの歴史観では、歴史の外観は地層のように重なっている。これはコンピュータのアルゴリズムやメモリーの中心となる数ビット1枚のディスクを何枚も重ねたときのバイト数の数え方と類似しているといってもあながち、マチガイではナイ。この数枚のディスクをフーコーは「エピステーメー」と称して、その時代を席巻するコトバを「ディスクール」と称した。たとえば、「狂気」や「疾患」がそれぞれの時代でどう扱われたか。「権力」と人間がどう関係したか。現在は人間にとってどういう時代か、だ。これらからいえることは、哲学思想には、共時性とともに通時性が必要だということだ。釈尊のコトバはいまも生きているのだから。これを逆に転じると、100年先の未来の人類は、いまの私たちの考えを「彼らは宇宙がコレコレだったことを知らなかった」というかも知れない。
一昨日のことだ。近隣の中学校の卒業式があった。校庭に集合した卒業生たちが、順に校門から出て行く。後輩たちのブラスバンドがそれを送る。ちょうど頃良く見渡せる位置にあるスラムアパートから、買い物帰りの私は、部屋に入ることもせず、それをじっと観ていた。観ていて、目頭が熱くなり、涙が流れた。ブラスバンドの音が、その、けして美しいとはいえない、しかしコヒーレンスな音が、ただ一所懸命に振動して、精一杯に鳴り響く。その中を特に感慨もなさそうに、それぞれの16歳が行進するではなく流れるように足早に校門を出て行く。彼らはこれから次の高校時代に向かう。私もそうだったのだなあと、ただ、そういう思いだけで観ていたのだが、一粒二粒、涙は流れた。何の涙だったのだろうか。私はキザってカッコつけて文学を書こうとしているのではナイ。そのシーンは、やはり「劇」なのではないかと思ったのだ。そのことを知人に話したら、そんなことでよく泣くよな、あんたも歳とったねえ、といわれた。なるほど、そうだ。その知人がもしその光景を観ていても、ただの卒業式の風景に終わったかも知れない。そのとき、その知人と私に「みえるもの」は一緒だ。しかし「観ているもの」は違う。同じではナイ。現実には、単なる卒業式のファイナルの風景にしか過ぎない。私はその風景を「劇」として「虚構化」している。自ら創った「虚構」に涙している。ゆんべは、SLOFT/Nの活動の一環としての「えんげきの『え』」の一回目がユースクエアで行われた。十数名の参加者は、電球とグロスターターで作った「火入れ」を焚き火にみたて、薄闇の中、その虚構の焚き火を囲んだ。そこで話したのは、「えんげきのはじまり」だ。私たちは、えんげきのはじまりを、原始人類にまで遡り、氷河期に穴居する僅かに生き残ったホモ・サピエンスとなって、「えんげきが、なぜ、どんなふうに」始まったのかを、少しだけ体験してみた。これは、次回もつづけられる。その当時、いまから10万年前のホモ・サピエンスたちのことを、私たちは「あの頃はおそらく」と話すことが出来る。彼らは何に涙したのか、何に笑ったのか、何を恐れ、それとどう闘ったのか。そうしてソノ名残は、現在の演劇の何処に遺されているのか。演劇論はここから始まらなければならない。

2012年3月 8日 (木)

如是想解・44

43 謎はつづく
私たちを悩ませる「歴史」というものの感覚はいつもこうだ。まず個人史というものがある。固有の歴史だ。それとは別に「歴史」というものがある。私の個人史はその歴史に巻き込まれるだけで、私は歴史をどうすることも出来ない。ほんとうは、私という個人を含めて歴史はあるはずなのだが、それとこれとは、違ったふうに進んでいるという感覚だ。いったいその感覚は何処から生ずるのだろうか。また、何故、そういう感覚に陥るのだろうか。もし、うつ病を「内部からひとりでに」生ずるという②の診断方法(発症要因)を信ずるとすれば、前述したように「外部からひとりでに」というベクトルをいうことも可能でなければならない。この外部というのは、個人(固有)史ではナイのだから、流れゆく歴史ということになる。この問題はけっこう難題のようだ。マルクスやフーコーはその哲学的思考の主題に「歴史」を導入した。マルクスでいうなら、通俗的だが「階級闘争」だし、フーコーでいうなら、「ディスクール(言説・・・その時代に波及、流布され用いられた言語、拙論))」や「エピステーメー(その時代を支配、席巻した、独自の法則、理論)」であり、二人とも「権力」というものを扱っているのだが、あるいは接近し、あるいは遠のく。例を挙げればマルクスの権力思想である「階級闘争」は、フーコーにとっては、その時代に存在した「エピステーメ」でしかない。(この辺りは、ソシュールの言語学の影響といわれているし、私も、そこにフーコーはヒントは得ているとは思う)。
この個人(固有)史と、歴史(普遍的・一般的、歴史)の並行感覚は、おそらく私たちが社会科の授業で歴史を習ったときにも、敏感な者なら抱いただろうと思う。これがなぜ難題なのかというと、科学(物理学・力学・進化学・化学、et cetera)において歴史を扱う場合には、エントロピーという「時間の矢」の存在における不可逆的な時間の流れとして扱わねばなナイ(注釈を入れておけば、エントロピーというのは物質のことではナイ。よくエントロピーの増大などといわれると、何やらそれがある種の物質のように思えてしまうが、簡便にいえば、質が量へと転化するエネルギー現象のことで、ここでは時間は不可逆、つまり一定方向にしか流れないので、「時間の矢」は光陰矢の如しの矢と同意に例えられている。「光陰」というのは「時間」の別名だ。質が量へというのは、100円ライターで火をつけると、中のガスである質は炎の熱という量に変わるということだ)。しかし、哲学や思想というもの、あるいは表現というものは、その限りではナイ。思考は幾らでも過去にもどることが出来るし、ハイデガーやキェルケゴールのいう「反復」などの概念は、ヘーゲルのいう「反省」という運動とも似て、ひとは過去から学ぶということが出来るし、逆にいえばそういう存在が人間だ。いっときは興隆を極めたアングラ演劇とマスコミにはいわれた演劇は、いま新・新劇(というんだろうか)の台頭に取って代わられている。つまり「反動」というものがある。人間は、何度でも同じ過ちを繰り返すのと同意だ。ここでは「時間の矢」はどっちに向いても飛ぶ可逆的なものになる。②における「内部からひとりでに」起きる疾病としてうつ病を捉えるならば、「内部へとひとりでに」もどっていくものとして捉えねばならないし、たしかに、うつ病にはそういう面があるのは事実だ。身体的症状も、いっとき我慢すれば、治まる。
単独では世間(歴史)に影響を与えられないのなら、「団結」すればイイのだろうか。集団としての力で何とかなるのだろうか。たしかにナチズムは、ヒトラーという単独者が始めて、集団となり団結して、歴史となった。しかし、このコヒーレンス(波動が干渉する度合い、つまりエネルギーの増大の目安となるもの)は正しかったか。この波の流れに乗っていくという個人の歴史参加は、個人史にどう影響を及ぼすのか。うつ病の発症②や、あるいは演劇の集団性を考える場合には、ここまで拡張した謎に応えうる答が必要になってくる。

2012年3月 7日 (水)

如是想解・43

42 次なる謎は
マタニティー・ブルーが、母体という自然(個体-固有の自然)と、進化論的に観た自然というものとの齟齬(すげえ漢字だな。意味は、かみ合わないとか、くい違うとか、ずれがあるということですが)にあるのではナイか、というところまでで、いまの私には論を進める自信はナイ。(とはいえ、ここまでにしておくつもりは毛頭ナイ)。ここで探偵は②に論を進めることにしたい。/②の内因性は「内部からひとりでに」起こるもので、①や③には該当しないものをいうのだが、「内部からひとりでに」というのは、うつ病にあたかも人格、物象を付与した感が否めない。もし、これを認めるなら、「外部の何かがとり憑いて」という拝み屋の対象ともなる理由をいうことも出来る。およそ、このレベルにおいては問題にならない。とはいえ、これはほんとうは問題にしなければならないものだ。そうして、現在のうつ病治療薬も、多くこの内因性の生ずる脳内物質(神経伝達物質)の制御を主な目的としている。いわゆるセロトニン、ノルアドレリンの再取り込みを防ぎ、その物質を増加させることによる制御だ。/と、前述した。「内部からひとりでに」というのは、没個的なもので、まったく固有のものだ。しかし、およそ、そういうものが存在するとすれば、独語(独り言)と似た世界を想定しなくてはならない。いわゆる完全に即時的なものだ。ここで、ちょっと回り道になるかも知れないが、西洋の哲学史をかなり大雑把に順繰り観ていくと、といっても、ギリシャ哲学まで遡っていてもしょうがナイので、たとえばヘーゲルは、この世界と個人というのはつねに関係しあって運動をつづけていくという弁証法を説いた。ところが、哲学史などを読むと、まずキェルケゴールなどがこれに反撥したことになっている。「世界のことより、自分自身のことだ」、と、彼は主張したワケだ。これが実存主義という哲学思想の初まりになっている。しかし、キェルケゴールは世界をないがしろにしたワケではナイ。無視したワケではナイ。ちゃんと「絶望の絶望」というコトバで世界と自己の関係を述べている。これはニーチェのいう「虚無」と紙一重でよく似ている。違うのは、キェルケゴールが有神論者(キリスト者)だったのに対してニーチェは高らかに「神は死んだ」と宣言したことだ。(つまり、ニーチェは無神論者ではナイ)。キェルケゴールのいう「絶望」というのは、この世界に対する絶望をいっている。自己に対する絶望をいっているのではナイ。簡単にいえば事なかれで、刹那的、享楽的に生きるというのは、神に対する絶望を意味するワケで、そういう者こそがほんとうの絶望的な人間だというのだ。従ってそういう絶望の絶望を知ってこそ、個人のほんとうの生き方が始まるということだ。だから、キェルケゴールは世界と自己は神によってつながっているというカタチで世界を認知している。これがハイデガーになると、次第に世界(ここでは歴史ということになる)と自己(ハイデガーのいう現存在)は、自己が意識したときにだけ、現れるというふうになる。つまり、歴史に対する関与、干渉というものが、自己から歴史へ向かったときと、歴史が自己に向かったときにのみ、生じてくるということになる。現象学のフッサールにおいては、歴史という客観は消される。存在はするのだが、それはある妥当な産物としてということだ。つまりそれぞれの固有の歴史の集合が全体の歴史だというふうにとってもイイようだ。だが、ここで、やっかいものが登場するサルトルだ。彼も実存主義哲学を論じて登場したのだが、自ら「実存主義という主義はナイ。単に人間が本質ではなく実存的存在であるというに過ぎない」と提起して、自らはマルクス主義者となり、この現代世界の歴史は、個人の関与によって変えられると主張した。それがあの有名なアンガージュマン(積極的に未来を変えよう)だ。つまり「革命」だ。しかし、それに反論した文学者がいる。アルベール・カミュだ。彼は哲学者ではナイが、サルトルのいう共産主義社会への歴史転換については反撥した。ここで、カミュ-サルトル論争というものが生じた。カミュは、革命の暴力性を非人道的だと認めない。それに対してサルトルは資本主義の搾取こそ暴力だと主張して譲らない。打率2割5分くらいでサクサクというと、こういうことになる。ここで問題を絞れば、「歴史」と「個人」とは、どんなふうに関わりを持っている(持てる)のだろうか、ということだ。つまり「内部からひとりでに」というのが通用するのかどうかということだ。

『レイン・オブ・アサシン』(『剣雨』)を観る

これ、ツタヤ独占のブルーレイ・レンタルなんですけど、2010年香港・中国・韓国合作で、監督は共同監督としてジョン・ウーが参加しとります。日本では2011年8月公開だったらしいんですけど、悔しいことにこういう映画は名古屋ではまず観られません。(観のがしたのかもしれへんけど)。主演はミシェル・ヨー、ほんで、韓国の『私の頭の中の消しゴム』のひと(このひとも良かったですわ)。しかし、ミシェル・ヨー、49歳にして、まだまだ武侠映画の女王の座は堅守しておりますナ。好きですわ、私。こういうファザー・シップのある女優。
私の好みとしましては、B級でキチンと創られた映画がイイですわ、やっぱ。筋書き(story)の大雑把なところは、たいていの観客にはのっけからワカルので、アトはplot勝負。「さて、こいつをどうする」と楽しんで観ていられます。映画は娯楽です。どんなに社会性のある映画も娯楽でナイとアカンです。それにこの『剣雨』、なんとなく『あずみ』(現在は『AZUMI』)と似てますナ。たぶん、脚本は、それ意識しているか、脚本家は読んでますナ。さらにこの主題歌がヨロシ。『剣雨浮生』、エエですな。昨日の『果てなき路』の主題歌もエかったですが。私、映画の途中で、ちょっと一時停止させて、仏壇代わりの正面の壁に貼ってある先逝したひとたちに線香あげました。そこに今朝、「大腸ガン検診結果通知書」も貼ったんです。「死に損なった」のか「生き延びた」のか、ワカリマセンが、どっちにせよ、生きてるぶんは、働きます。生きててこそ、こういう映画も観られます。感謝のおセンコです。こ難しいことも考えますが、書くぶんには、B級演劇の天才(と、私を評したのは、なんつう演劇評論家やったか忘れましたが)として、二流劇作家として、吉野屋作家(早い、うまい、やすい)として(やすいというのは、ちょっと勘弁して貰いたい部分でもありますが)として、書いていきまっさ、と。今朝は買い出しに近所の大型スーパーに行きました。わざわざ、贔屓のレジの女性のところにスッと入って、この女性、ほんのちょっと斜視(やぶにらみ)なんですけど、そこが、またエエですなあ。B級で、ヨロシ。

虚構の真実

映画『果てなき路』のエンドロールの最後に「これは真実である」という一行が出てくる。字幕訳者がどういうふうに訳したのかはワカラナイが、この場合の真実というのは「これはホントウにあった話である」という程度のものだ。いまの時代最も胡散臭いのが、この「ホントウにあった」というコトバだというくらいのことは、子供でもうっすらと感じてはいるはずだ。その証拠にホラー映画の宣伝文句にはこのコトバが最も多用される。では、「ホントウにあった」とは何をどう示すのだろうか。フクシマ原発事故はほんとうにあった、という場合、確かにそれはあった。しかし、ホントウにどういうふうにあったのかは、私たちは報道で知る以上のことは知り得ない。先述したが、私にとっては、水がぶっかけられた、というのが唯一のホントウだ。牛乳にセシウムが検出されて、飲めなくなったというのはホントウか。水道水が飲めなくなったというのはホントウか。これは専門家で意見が分かれているところだが、政治的は判断でしかナイ。「何かコトが起こってからとやかくいわれたくはナイ」という事泣かれ主義が現在の日本の政治だからだ。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では鉄道の乗客の少女がジョバンニに「ほんとうのほんとうの神さま」と表現する場面がある。この小説には、なんだか何度も「ほんとう」というコトバが出てきた記憶がある。私たちは日常的にも「ほんとのところはどうなの」などと、これを用いる。「ほんとう」、私たちが常識として知っていることを「ほんとう」は覆す。最近のテレビバラエティはこの手のものばかりだ(テレビはまったく観ていないのだが、月に一度、実家に帰って、母親が観ている番組を付き合って観ると、たいていいつも同じだから)。しかし、世間の常識を「ほんとう」で覆すのは難しい。世間の常識が慣習である場合はなおさらだ。『贈与交換』も同様に『贈与』だけを受け取られると、貰ったほうが心苦しいだけになる。「お返しするものが私にはナイ」という非対等を産む。『交換』は見返りではナイのだが、つまり『贈与』そのものがすでに贈与した者にとっての「資本」となるのだが、贈られたほうは、何か自身が贈与された相手に対して「資本」とならねばいけないのかなと、強迫観念すら感じてしまう。これは「ほんとう」のことではナイ。贈与した側は、けして「返せ」といっているのではナイのだ。繰り返していうが、贈与そのものが資本と等号で結ばれているのだ。しかし、こうしたことも『贈与交換』の問題の一つとして答えていかねばならないことだ。私たちはあまりに資本主義とか、資本制社会とか、そういうコトバで、資本を「ほんとう」の姿ではナイままに経済制度を常識の中に、慣習の中に刷り込まれて(組み込まれて)いる。かの命題も演繹していいなおせば、「私は(或いは、私に起こることは)世界からの贈与(インシデジタル・ギフト)なのだから、私は世界に対して表現するという営為を以て、それに応える」となる。このインシデンタル、偶然を考えるのに『散逸構造』は一つの方法となるだろうが、いまのところ、『散逸構造』では身体器官を説明出来ても、心的な現象のでどころが、奈辺にあるのか、私には定義できるほどにはワカッテいない。ゆらぎの確率でヒトが出来たとしても、ココロは確率として生じるものとは思えない。考えること、まさにこれこそが「果てなき路」だとカッコよくいっておこう。

2012年3月 6日 (火)

映画その他

モンテ・ヘルマン監督の「ロマンチック・ミステリー」と銘打った映画『果てなき路』をシネマテークで観る。ミステリ仕立てにはなっているが、この映画をミステリとして観ると、ツマラナイものになる。「謎」がナイからだ。ハナから「入れ子型」の創りであることはハッキリしている。何処までが映画で何処までが現実なのか、というより、何処までが映画内映画で、何処までが映画という虚構なのかが、テレコで創られているからだ。それはさほど巧妙な芸とも思えない。ヒロインにも、劇を引っ張る力量がナイ。「葛藤」や「疑惑」がナイからだ。そういう意味ではストレスの大きな映画だ。私はこの監督のことはまったく知らないが、何やら伝説のひとらしい。だからなのか、「どうだっ」という傑作意識が鼻について、たまらない。「どうとともいえねえな」というしかナイ。
観終わってから、かかりつけの医者に、大腸ガンの便潜血検査の結果を聞きにいく。実はバレンタインデーあたりから、ひどい便秘で、浣腸を二本使っても出ない。下剤を用いて、上っ滑りな便が出るが、残便感がある。デトックスのハーブティーを購入し(これにはたいていのメーカーのものにキャンドル・ブッシュというセンナと科目は違うが効能が同じものが含まれている)。それで、やっと出るには出たが、私はたいていが下痢症で、こういう便秘は初めてのことだ。かつて、角川書店の私担当の編集者を30歳の若さで、大腸ガンで失っているので、一応検査することにした。結果が出るまでの五日間は、便が出ない数日よりも悶々として、もし大腸ガンであれば、というシミュレーションを幾つも考えた。私のような仕事は、代替が利かないナイので、そういうことをやらねばならない。ネットで大腸ガンを調べたが、比較的生存率はイイとある。しかし、これは高額医療をしての上の話だから、いま手持ちの銭が幾らあって、どのくらいの保険適応で、何年いけるかも考えた。何とか2~3年いければ、仕事に一応カタはつけられるなあ、てなことを思ったりした。先年のSLOFTの12月公演前に62㎏あった体重はいま、58㎏だ。これが、ガンのせいなのか、食生活を変えたせいなのかも、判別に苦しむところで、結果が(-)と聞かされるまでは、死刑囚の処刑当日はこんな気持ちで、こんなふうに演技すればイイんだなと、そんなことも考えた。まったく、そういうときまで、演劇のことに取り入れてしまう業も悲しいものだ。先週から、朝食をヨーグルトとハチミツに変え、夜食として何か食べるときは、チーズと納豆にしている。別に長生きしたいという気持ちはナイのだが、もう少し仕事がしたいというところからだ。『贈与交換』についても、新たに考えねばならない部分があるし、『散逸構造』においても、どこで「心」が生じる要素があるのかを考えたい。なにはともあれ、クラモチくんのいってた通り「銭の切れ目が命の切れ目」ということを身に沁みて感じたこの半月だった。

2012年3月 4日 (日)

如是想解・42

41 探偵は思考する(40のつづき)
このあたりまでは、『心的現象論(吉本隆明)』の受け売りというより、勝手な読み方からの私独自の展開だ。(先述したように『心的現象論』は精神医学のことが記された著作ではナイ)。①が「脳や身体に原因のあるうつ状態でないか」とうつ病診療(診断法)をまずそう考えるとき、この疑問(問いかけ)はアタリマエに過ぎて、殆ど何もいっていないのとどうようだ。何故なら感染症でナイ限り、およそ疾病は脳や身体の変調だからだ。ただ、身体因性とあるように、身体に注視した部分は、うつ病が精神疾患だと思われているのに対する異論(そして疑問)と受け取ってもイイ。しかし「脳」と「身体」とでは、進化の過程における「時間」がかなり異なる。つまり「脳」は進化の過程が新しい、短いのだ。進化論は現在は進化学として、百花繚乱、さまざまな論説と解釈の学派がある。そのまとまりがナイために「創造説」に対抗出来ない。進化学は科学だから、「創造説」を提唱する宗教とまともに論争してもしょうがナイ。科学はワカラナイことはワカラナイといわねばならないからだ。脳の進化に話をもどせば、脳が進化し始めたのは、人類が直立二足歩行を始めてからだというのが、だいたいの学派のトータルな見解だ。今西錦司の学説では、脳の進化の開始を「大脳化」と称する。順を追っていくと、ヒトが二本足で立つようになった。何故立ったのかは今西説では「立つべくして立った」ことになっている。(つまり立つ時期が到来したからだというのだが、これはオモシロイ発想だが、科学としては諸手を挙げて受け止められるものではナイ)。立って両手を使うことが自由になった。で、その手に道具を持つようになった。ここで、ヒトは手を用いて自発的に火を使う(火を創る)ことを覚えた。それまで生で食していたものを火によって調理(焼いたり煮たり)して食べるようになった。すると、硬いものが柔らかく食べられるようになった。その結果次第に歯が退化していく。歯の退化にともなう口腔の(大きさの)変化から、脳が大きくなった。と、これが大筋だ。つまり脳の進化というのは生物進化に比してかなり僅かな時間なのだ。そうすると、ここで、一旦、脳は引っ込んでもらってもよさそうに考える(とりあえず括弧にくくろう)。問題は身体だ。この進化の過程は古く、長い。「ヒトは(生命体)は何故、進化してきたのだろう」という問題についての答は前述したとおり五万とある(それだけの諸学派、学説がある)。ただ、「ヒト(生命体)は何故、進化[出来た]のだろう」ということについては、ヒトが「散逸構造」そのものだから、という説は、現在最も有力視されている。宇宙というものを平衡状態だとすると、その「ゆらぎ」として地球に非平衡状態が出現したとするものだ。「ゆらぎ」は現在のヒトの生命体としての在り方と同じだ。食物を取り入れて排泄し、成長する。あるエネルギーがエネルギーを増幅していく。
マタニテイ・ブルーにおいて出産は、用語解説でも述べたように「表出」に該る。出産は「表現」ではナイ。しかし、ヒトが他の生命体とおなじように自然(環境世界)的におこなう営みだ。で、あるのに、なぜ「ブルー」があり、うつ病発症の因となるのだろうか。一つしか答は考えられナイ。「ヒトという自然は、環境世界の自然とは違う」ということにつきる。つまり出産という「表出」は、元来、類的な営為として自然でありながら、環境世界としての自然とは異なるという、二律背反に置かれている。ここには、ヒトの進化の過程において、出産という「表出」が、自然自体に対して、ある異和として存在しているのではないかという、問題が提起される。この二律背反を母体は受け止めて、成し遂げねばならない。心的な異和を伴う精神的影響下(うつ病の発症近く)に置かれるのは、ごく当然のことと思われる。

ゆらぎとは「~」である

私たちは、数学や物理学の数式を前にして必ずたじろぐ。しかし、数学の先生や物理学の教授も、インカ帝国の古代文字の前ではたじろぐのだ。「線型力学」や「非線型力学」といわれると、またたじろぐ。しかし、前者を数式の中に用いられる記号で記すと、「線型は -」であり、「非線型は ~」だ。もちろん、ほんとうの数学や物理学ではそんな記号は使わない。ただ、私自身が解りやすく示すとすれば、イメージとして描くとすれば、そうなるといっているだけだ。上記の図を観ると「線型」は「-」だから真っ直ぐ。非線型は「~」だから曲がっている。線型はリニアといういわれ方をしているから、JR新幹線の未来の電車がリニア・モーターカーと称されるのは、殆ど直線を突っ走るからだなとワカル。そこで、平衡系宇宙を「-」(つまり波風立たない水面のようなもの)とすると、非平衡系宇宙は「~」になる。これが「ゆらぎ」というものだ。なるほど一目瞭然、ゆらいでいるでしょ。ところで、量子というものは「波動」だ。「-」は波動ではナイ。だが「~」は波だ。波動ということだ。この波動をエネルギーというふうに理解しておく(まさにそのとおりなんですが)。量子というのはエネルギーの最小単位だが、それは波動だということだ。そうすると「~」という「ゆらぎ」はエネルギーだということになる。量子はもともと、何かを創るために存在するものではナイ。存在の理由はなく、単なるエネルギーだ。イリア・プリゴジンの考えた宇宙の『散逸構造』を図にすると、以下のようになる。

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「-」の中に時折「~」が姿を現す。つまり、微少であるが、ある確率で、局所的には「ゆらぎ」の場があるということになる。何故、ここで、こんなことをいいだしたのかというと、もちろん、今後の『続・恋愛的演劇論』等に、この概念(概念というのが難しかったらというか、なんだかもう威張ったような雰囲気の漢字だからと思ったら、単にイメージでイイ)、を持ち込もうとしているからに他ならない。

2012年3月 3日 (土)

続・恋愛的演劇論・2

「演劇とは何ですか」と問われれば、「戯曲という書かれた劇」と、それを写像した「舞台で演じられる劇」と答えればイイ。あるいは、両者は架橋されていると。「戯曲と演じられる劇の転換は」と問われれば、「戯曲の台本化に依る」と答えればイイ。つまり両者は恋人のようなものです、と。従って「恋愛的演劇論」なのだ。さらに「では、劇とは何ですか」と問われれば、「生命進化のロマンチシズムです」と答えればイイ。「そのロマンチシズムとは何ですか」を問われれば、「生命体が進化の過程でDNAに刻んできた物語」と答えればイイ。そこで、次なる質問は、「では、劇は虚構ですか」になる。この問いには「生命進化は現実のことではありませんか」という反証が含まれている。そこでこの『続・恋愛的演劇論』では、「現実」と「虚構」について、解き明かそうとしているのだ。この問題において、私たちが保有しているのは次の二つの命題だ。「世界(自然)は私の表現である」「私は世界(自然)の表現である」。この「表現」というものから演繹的に命題に辿り着くか、または逆に命題を帰納出来ればイイことになる。それは「表現」というものの「現実」と「虚構」の「ナンであるか」を解き明かせばイイということだ。『劇、それ自体』からの、私たちの仕事はそういうところにある。
これは本質論だ。もちろん情況論が必要なことは承知している。従って『続・恋愛的演劇論』では、情況を俯瞰するようなカタチで進められればなおイイ。ただ、本質論と情況論の違い(その難しさ)は、東京、名古屋、関西圏では、演劇の情況がまるで違うというところにある。そういう意味においても、全情況的な「うつ病」を互換的、相補的に扱うことになる。何故なら、「演劇」と「うつ病」には、コード化(同一化)出来るものがあると予感しているからだ。そうしてそれは、「現実」「虚構」に踏み込むことによって、可能なのではないかと考えている。
「空間」というものがある。「時間」というものがある。「関係」と「了解」があるように。さすれば「速度」は何処にあるのか。これがワカラナイ。しかし、必ず、「速度」に対応するものがあるはずなのだ。と、そこまでは気付いているのだけど。うーむ、難しい。

如是想解・41

40 探偵は推理する(39のつづき)
①身体因性の場合、とある考えが浮かぶ。私たち(の中)には、雨の日の雨音を聞いていると眠くなる者がある。雨の日は眠い、私もそうだ。つまり、ある鎮静。それに反して、風の吹く音には神経が覚醒する感じがする。「雨がしとしと」「風がビュービュー(ビュンビュン)」では、身体がそれを受け取る受け取り方が違うのではないか。どちらも聴感覚だ。驟雨、夕立、は心地好いものだ。しかし、これが梅雨の雨となると「じとじと」という焦燥の感覚がやって来る。これらは、環境世界から身体が受け取るものにココロが作用(反応)しているとみてイイ。もうひとつ、寒い日に家に帰って厚い風呂に入る。逆に熱い夏の日に冷たいシャワーを浴びる。どちらも身体がその心地好さを感じている。身体はココロと密接につながっている証左だ。この身体とココロの結びつきは、その現象は、「身体のナニがココロのナニ」なのだろうか。ここから私たちは、私たちが環境世界とは違う生命体でありながら、環境世界と似たような部分を持っていると、推理していいのではなかろうか。前述した心地好さは、萎れかけた花に水をやって、花が持ち直すのと類似している。ところで、これから花粉症の季節(年中そうらしいけど)が始まる。私たちも一個の自然としての生物、生命体であるならば、同じ環境世界の花粉というものに、何故アレルギーという反応を起こすのだろうか。しかも、これは万人にではナイ。私はアレルギー反応の試験をして、すべてのアレルギーは「-(マイナス)」だった。のに関わらず、ストレスを感じる状態に置かれると、咳が出る。医者はいう「これは非アレルギー喘息ですね」このいい方は血圧の高い者がその原因を持たないとき「本態性高血圧だ」といわれるのと同じだ。私もそのホンタイセイコウケツアツなのだが、血圧など、あっという間に変動する。私の場合、ストレス性の微熱もあり、これも、37,6℃が、一時間もたたぬうちに36,5℃まで下がる。こういう身体とココロの相関する精神的、肉体的な現象を「心的現象」として、「知覚精神現象」と分けてみる。そうすると①のいわんとしていることは、どうも「知覚精神現象」とは異なるのではナイかと思われる。
ここで、マタニティ・ブルーを再考してみる。昨年の東日本大震災の際、私が最もインパクトを感じたのは、原発と水だ。これは原発事故と津波のことを直截にいっているのではナイ。原発の事故で、その災害をくいとめるために何が行われたか。セシウムがどう、ベクレルがどう、と、専門家がいろいろとマスコミでああだこうだと語っていることに、私は殆ど興味がなかった。私は、原発の事故に対して「水」がただ、延々とぶっかけられたということに、奇妙な感慨をおぼえた。要するに「水」なのだ。ただ、水をぶっかけているだけなのだ。原子力という最先端科学に対して、それに対抗する手段としてやっていることは水をぶっかけ続けていることだけなのだ。水がなければ、どうにもならないという事実に、私はちょっと驚嘆した。一方では津波という水の力で大災害となり、一方では大災害をくいとめるのに水の力が必要になっている。これはアナロジーではナイ。メタファーでもナイ。水、みず、ミズ、・・・かくして私の妄想は、母体の羊水の中に浮かぶ。胎児は出産という過程では、水の中から水の外に出されることになる。まるで魚類が両棲類として陸に上がったように。これを母体である母親(女性)はやってのける。進化の過程を胎内で創造し、そうして、最も苦しかっただろうエラ呼吸から肺呼吸への大転換を出産で成し遂げる。マタニティ・ブルーは、ここに要因をみてもよいのではないか。これは、極めて大きな「心的現象」といえるのではナイか。

用語解説

ブログで私が使用している用語の解説(みたいなこと)をしておきたい。
まず、「精神的」と「心的」の違いは、そのアトに「現象」を付けるとワカリヤスイ。「心的現象」というのは、主に身体性(肉体・内臓系統)とココロの関連を扱うときに用いる。この「心的現象(ココロと身体・内臓における関係と了解の精神現象)」と「知覚精神現象」を合わせて「精神現象」と称する。この定義は『心的現象論(吉本隆明・著)』に拠る。ただし、『心的現象論』は精神医学を論じた書ではナイ。
「表出」と「表現」の違いは、「表出」は具体性をいわないが、「表現」になると、どういうカタチ(形態)のものが表出されたのかの具体的な個々、固有のカテゴリーをいうことになる。つまり、表出されたものが、「音声」なのか、「書き文字」なのか、単に「コトバ」なのか、「身体の動き」なのか、「創作された作品」なのかという理解で足りると思う。「表出」はそれ自体が抽象的、観念的、概念的、で、たとえば「視線」や「聴取」や「触手」や「痛感」も表出といえる。

「ゆらぎ」というコトバは、物理学によく登場するが、書き文字や聞いた感じにおいて、何かが「ゆらいでいる」というふうに認識してしまうが、それであながちマチガイというのではナイ。物理学にいえば、「局所的な小さな秩序(エネルギーの規則的な運動)」をいう、と私なりには識知している。近年この「ゆらぎ」が多く論じられるようになったのは、イリヤ・プリゴジンの『散逸構造論』に因る。私はプリゴジンの著作は『混沌からの秩序』しか読んでいないが(それも、またいつものように悪戦苦闘しつつ)、それを理解したのは、ある数学者タレントが視聴率について、視聴率というのは、大鍋のスープの味が小匙(スプーン)一杯でワカルのと同様のことだと、解説したのを聞いたときで、「ちょっと待て、それには大鍋のスープが均質であるという前提が必要なのではナイか」と疑問を感じたときだ。このとき、ああそうか、そういうことかと、エントロピー(熱力学の第二法則)に逆行する、非平衡宇宙の散逸構造というものがやっと理解出来た。そうでナイと、人間のような生物は存在し(生まれてくる可能性が)ナイ。何故なら、固有の人間こそが「ゆらぎ」そのものだからだ。つまり、人間は「散逸構造」であるということも可能だ。
「疎外」というのは、辞書を引いてもなんのことかワカランという読者が多勢だろうと思う。ましてや「表出」=「疎外」といわれると、ますますワカランということになる。さらに「現実」と「虚構」は「疎外関係にある」(というふうに理論づけたいのだが)になると、まったくなんのことだということになるだろうから、本来はマルクスの自然哲学からきているこのコトバは、なるたけ用いないようにしながら、今後もその概念は扱っていくことにしたい。私なりに、「疎外」を用いずに、「疎外」がいえるようになれば、それがイチバンいいのだと考えている。ただし、この「疎外」(あるいは「表出=疎外」)が理解出来ると、ほんとはコトは早いんだけど。

2012年3月 2日 (金)

如是想解・40

39 鬱病を探偵する(38のつづき)
前項①②③を現場検証しながら、探偵の捜査のように推理を組み立てていくことにスルが、確証に至ることが出来るかどうかは、いまのところワカラナイ。ただ、私たちは、このあたりがどうも気になる引っ掛かる、という部分を抜き出していくことになる。まず、①の身体因性うつ病では「身体」の関与が取り上げられているところだ。脳や身体は気質ではなく「器質」として扱われている。これはおそらく心理的、精神的な面を強調するのではなく、身体的な「器」としての身体性に注目している。つまり私たちは頭痛のする場合、脳が痛いとはいわない。単に「頭が痛い」という。この場合の「頭」が「器」に該る。それは頭蓋骨をいうのではナイことは自明で、頭痛は頭蓋骨の痛さを表明することではナイ。ところが「胃が痛い」という場合、これは胃袋、胃壁、胃の中の痛みをいうことになり、「腹が痛い」は、大腸、小腸の内部か外部を指している。もうひとつ、これとは違う痛みがある。「胸が痛い」は、実際に肺が痛い場合もあるだろうが(拳銃で胸を撃たれたら、そうなる)、「出来の悪い息子、娘のことを考えると胸が痛い」と親はいう。どうように「税金のことを考えると頭が痛い」といい、実際にそれが、胃痛となったり、頭痛となったりする。誰しも恋をすれば、恋人の一挙一動に胸を痛め、胸を熱くし、胸を焦がし、胸を膨らませ、実質的に胃痛を起こしたり(神経性胃炎というが)、恋人のことを思うと食事も喉を通らないということで食欲減衰を招いたりする。私などはたいてい神経性腸炎になって下痢をする。(私の場合、大勢の子供の中に入れられると、やはり神経性腸炎で下痢をする。これはどうも、あの子供特有の臭いがダメらしい)。男性の場合はどうだかワカラナイが、女性の場合はどういうことでか恋をされると(たぶん性ホルモンの関与なんだろうけど)男性からみると、美しくなられる。薬物の場合も、それが直截の原因ではなく、その薬が身体に与える作用(副作用)というカタチで影響を与えているようだ。ここで、ひとついえることは、うつ病というものが、身体的な失調として現れてくることが多いということだ。私の場合も、最初は、目眩、吐き気、だるさ、嫌な疲労感、微熱まで出た。現在も私自身、鬱病が悪化すると身体症状となり、関節痛から全身の震えへと進んでのたうつ、悶えることになる。そんなときは「こりゃあ、死にたくなるわなあ」と思いつつ、自殺者に同情する。私たちは、ここで、一つ、うつ病というものが、身体(肉体)と何らかの関係(あるいは了解)を切り結んでいるということを記録(file)しておいてイイ。ただし、この身体性現象とマタニティ・ブルーとは、同列に置くべきではナイとも考える。女性が子供を産むということは、男性が思うほどに単純なことではナイと思われるからだ。お産というのは、十月十日の命を環境世界に送り出すという、類的な一種の「表出」に該る。このことについては、もう一考察入れねばならないだろう。(つづく)

如是想解・38

39 現象としての鬱病
『薬でうつは治るのか?』(片田珠美・洋泉社)によると、うつ病の診断作法として有名なのが、名古屋大学名誉教授笠原嘉(精神科医)による、三つの順序だ。これは従来からあったものだが、まず、①「脳や身体に原因のあるうつ状態でないか」を考え、②次に「ひとりでにおこる内因性のうつ状態でないか」と考え、最後に「心因があっておこっているうつ状態でないか」と考える。つまりうつ病は原因によって、三つに分けられるという提唱だ。
①身体因性うつ病 ②内因性うつ病 ③心因性うつ病
これらは、従来の心因性、内因性、外因性とは概念が異なっているので、まぎらわしいが、①は脳や身体の器質的なもの、あるいは薬物によるもので、最も明確な原因とされている。その一例がマタニティ・ブルー(出産の三日~一週間くらいに出現する、涙もろさ、不安、困惑、集中困難、不眠など)で、原因を胎盤ホルモンの急激なよるものとしている。また薬物というのは、麻薬をいうのではなく、例えば血圧降下剤(β-ブロッカー)や免疫調整薬(インターフェロン)等々を原因とするものだ。また、身体疾患(甲状腺機能障害、性腺機能障害、アルツハイマー)等々も原因となるとされている。
②の内因性は「内部からひとりでに」起こるもので、①や③には該当しないものをいうのだが、「内部からひとりでに」というのは、うつ病にあたかも人格、物象を付与した感が否めない。もし、これを認めるなら、「外部の何かがとり憑いて」という拝み屋の対象ともなる理由をいうことも出来る。およそ、このレベルにおいては問題にならない。とはいえ、これはほんとうは問題にしなければならないものだ。そうして、現在のうつ病治療薬も、多くこの内因性の生ずる脳内物質(神経伝達物質)の制御を主な目的としている。いわゆるセロトニン、ノルアドレリンの再取り込みを防ぎ、その物質を増加させることによる制御だ。
③は心因性という文字が示すがごとく、心理的ストレスというのが原因とされるもので、一発でいってしまえば「失恋」がそれに該る。興をこうじていわないのなら、愛するものの死、別れ、後悔、大きな失敗、等々で、これは、なるほどというほどありそうなだけ、これを原因とすれば、万人共通にうつ病に(一時的にも)罹患、発症しなければならない。だから、原因というよりは「きっかけ」として扱われている。つまり、ほんとうの要因はココロの中にすでに存在していたというものだ。
ところで、私たちは、この①~③を観て、たしかにそういうことはあるだろうが、分類として考えるのには、早計な感を抱く。ある個人のうつ病が、この三種の何れかだというには、納得しかねる。首肯できないのだ。これらは、うつ病のさまざまな現象をとりあげているのに過ぎないのではないかと思われる。(つづく)

2012年3月 1日 (木)

SLOFT/Nにおける贈与交換について-2

贈与交換がポトラッチとして行われていた頃(時代、あるいはその文明)の危険性は、互いに贈与する額が贈与された額を上回り、次第に財を減らして自滅することにあった。いまもアジアの共同体では、婚儀や葬儀のさいにこのポトラッチが行われることが多い。葬儀を一回とりおこなうと、その儀式費用の他に、香典返しという仕来りがくる。婚儀の場合も、お祝い返しが生ずる。婚儀の場合はたいていその一回で済むが、葬儀の場合は、喪明け、初七日、一周忌、三周忌、さまざまに返礼の仕来りがつきまとう。これはマルクス経済学で通例の等価交換でもないし、相対的価値交換でもナイ。何も「交換」していないからだ。といって贈与でもナイ。単なる因習にしか過ぎない。
では、贈与交換として「商品」を仲立ちしない「交換」をした場合、上記のような見返りのようなものがあることを当然とすべきだろうか。私たちはそう、考えない。無償で労働を提供するのだから、いい思いがしたい、などという援助交際のようなことは「贈与交換」にはあてはまらない。(もっとも、援助交際は有償でイイ思いをするのだが)。「贈与交換」は「託す」という私財の遣い方をするものだ。ある対象に「私」を託すのだ。「私」は生物である限り、必ず死ぬ。死ねば「私」は終わりなのだが、対象に「託された私」は遺る。例えば、近江商人の考え方はこうだ。いま、目の前にどんと銭がある。ふつうの商人なら掴み取ってしまうだろう。しかし、近江商人は、そんなことはしない。その銭を、どうぞと、(信用のおける)ある者に託す。ある者が、それを元手にして財を成したとしよう。その分け前を貰う、ということも近江商人はしない。近江商人は、その者と商取引をするのだ。つまり、目の前の銭を与えて、ある者を「資本」に変えてしまうのだ。そうしてから、その者と商いをする。独占的にやろうと思えば、その、ある者は、やはり第一番に銭を与えて貰った者をその義と考えるから、近江商人は、そこで銭儲けをすることが出来る。これが「損して得とれ」だ。
「贈与交換」は、まさにこの道理で動いている。対象を資本にしてしまうという道理だ。私はこの道理で、名古屋で生きてきた。もちろん、失敗もしているから損失も大きかったと思う。しかし、それよりも多くの「資本」を創ってきた。ひとは自分の成さんとしたことに必ず裏切られるというカタチでしか、成就をみない。これが生きる本質ならば、「資本」は霧散するのだろうか。たしかに霧散したようにみえる。だが、正確にこれをいえば「資本」は「散逸」するのだ。つまり完全に「平衡状態」になるということはナイ。濃度の分布をもって存在する。これはイリヤ・ブリゴジンの「散逸構造論」にも届こうとする、「資本」というエネルギーの「秩序」であり、その運動としての「ゆらぎ」だ。「贈与交換」は、資本というもの本来の(あるがままの)姿である「資本」を対象に遺し、対象に遺すという価値を与えた(贈与した)者に「資本」という価値として交換されるものだ。そこにはドレスと創造者とにおける主従の引っくり返りはナイ。常にそれを創造するものが「主」であるという位置を保つことになる。

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