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2012年2月 9日 (木)

げびげび

今朝方のレム睡眠で、子供の夢をみた。むかし飼っていた猫が私の胸にひょいと飛び乗ると、それは赤ん坊になった。私はそういうふうに、まだ二十歳のとき、赤ん坊を抱いたことがある。その子は私のほうをみないで、遠くを心配そうな目でみていた。わかるのだ。赤ん坊でも、親に愛情がナイということくらいは。以来、子供は諦めたのだが、五十も半ばを過ぎて、ふと子供が欲しくなった。それが私の双極性の躁鬱病の躁病期であったからなのかどうか、よくワカラナイが、1年足らずで子供のことは、もうイイと思うようになった。相手の女性にすればいい迷惑だ。すでに二度目の離婚をして(離婚された女性に対しても大迷惑だ)、その女性と、比叡山に一泊したとき、途中に「ザリガニ公園」というのがあって、それをみたその女性が「次はここに子供を連れてきて、一緒に遊びましょう」と嬉しそうにいった。それを聞いて私は頭が変になった気がした。ザリガニ遊び。子供と。そんな私を想像すると、もう途轍もなくイヤになった。その女性と別れた理由はそれが原因ではナイのだが、いやもう、懲りた。女性の表と裏のチガイに辟易した。それが何度目かの辟易なのに、まったくひとは恋愛というものの学習能力に欠ける。太宰治は『チャンス』という作品でこう書く。「片恋というものこそ常に恋の最高の姿である」「恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である」
と、太宰原作の小説から、二曲、戯曲を書いたら、こんなふうに同化してしまうんだからなあ。チャンスに乗ぜずして、こちとらの仕事はあがったりだ。私は塾生にも、「才能も努力もアテにはならない。必要なのは、巡ってくるチャンスに必ずヒットが打てるようにしておくことだ」と教えている。それが受注自営の労働というものだ。それは、財政が苦しいから税金を上げるという、子供でも出来そうな愚かな政策しか知らない政治家より、うんと清廉だ。大阪(府だか市だか忘れたが)では、文化予算がバッサリやられたそうだ。私が公共ホールの館長をしていたとき、予算より150万円多くを自作のミュージカルで黒字にしたら、次からは150万円分、予算が削られた。アホとしかいいようがナイ。公共経営に民度を導入するとかで、私は館長に任命されたのだが、それもまったく逆だと思う。民度が知りたければ、その公共ホールの小役人が、三カ月ばかりでいいから、民営の業界に働きに出ればいいのだ。てめえの賃金は保証されて、その保証を守るため日夜努力しているだけなのだ、そいつらは。
予算を削る、それが無駄な予算であればイイ。しかし、必要な予算を削って財政云々をいうことは、逆行としかいいようがナイ。近江商人は、目前の銭を掴むということをしない。目前の銭を他人に渡して、他人が儲けたところから銭を頂戴することを方法としている。近江商人の訓に「損して儲けよ」というのがある。銭が欲しいのなら、財政が不足であるのなら、儲ければイイのだ。稼げばいいのだ。稼がずして、予算を削るなどというのは、何の知恵もナイものの愚行だ。このへんのげび方が、私と太宰のチガウところかな。恋愛も、賭博の負けも、酒の上での失敗も、何度やっても懲りないところが、オモシロサなんじゃナイの。よって曰く。「人生すべて、チャンスに乗ずべし」ただし、責任は負わぬ。

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