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2012年2月24日 (金)

如是想解・36-2

37 具体的にいえば
前項36を具体的に述べれば、意外に簡単なことをいっているに過ぎない。私たちのカラダは免疫のように異物を体内で殺す。大腸菌もまた似た働きをする。これらを解りやすく「咳」「クシャミ」「下痢」「発熱」で考える。「咳」は、喉に入ってきた異物を繊毛が外に出そうとする作用だ。「クシャミ」は同じく鼻に。そうして、「下痢」は胃腸にある毒気を排出しようとし、「発熱」は体温を高めることによって、免疫抗体の働きを助けるため、風邪、感冒の初期の熱はこれを無理に下げるべきではナイのは、医療の常識となっている。同じことを「鬱病」というものに当てはめてみる。前述した「咳」「下痢」は疾病そのものでない。疾病による「症状」だ。そこで「鬱病」を、その「症状」に対応させて、「現象」と捉える。「咳」や「下痢」は苦しいものだ。だから鎮咳剤や下痢止めのクスリが存在する。鬱病という「現象」は苦しいものだ。つまり「現象」そのものが、現象を起こしている当人を苦しめる。人類は、進化の過程によって、体内の毒気、異物を排出する手段をその身体に所有した。もし、「鬱病」が疾病ではなく、その現象であるとするならば、人類は未だ、その苦しさに耐えうる力を備えていないということになる。それは如何にも免疫が暴走している姿に似ている。その「疎外」を解消するには、存在の抹消という他に手だてがナイ。つまり自殺だ。では、解消ではなく、これを克服するという手段はないのだろうか。いまのところ、私自身も、その手段を知らない。「咳」や「下痢」というものですら苦しいのだから、鬱病の苦しさに耐え得るのは至難の業というしかなイ。
鬱病を「ココロの風邪」とうのは、ある程度は正しい。「咳」も「発熱」もそのアトにやってくる胃腸に下りてきた細菌の起こす「下痢」も、排出、排斥としての症状だからだ。しかし、風邪、感冒で死ぬことは、それが肺炎などに二次感染しない限りは、まずナイ。だが、鬱病は、自殺すること、「私」を抹消することによって、これを解消しようとするものだ。この心的「現象」を如何にすべきか。一つだけエビデンスではなくいえることは、「闘えない」ということだ。何故なら闘う相手は、私自体だからだ。「私」が「私を対象とした私」と闘っても、その闘いは循環するだけだ。つまるところ「私」は「私」のことなどワカラナイのだから。

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