如是想解・14
34 机
意識のあり方のつづきとして、具体的な例を述べる。「机」がある。これを観るという営為を順番にいうと、「観ている」→「そこにあるものを」→「そこに机がある」。意識の流れは、そういうふうになる。ここでは、机を観ているのは「私」なのだが、ただ、ぼんやりと、漠然と、あるいは忘我して、観ているということにすると、「私」という存在は単なる視線となって、希薄になる。しかし、ひとは、「私」というものも対象にしてしまう。「観ている」→「そこにあるものを」→「そこに私がいる」。これが、「即自的」というものだ。ここで、問題が生じる。何が「私」を観ているのか。それは「私」に決まっている。そうすると、これは無限の循環(合わせ鏡のような状態)に陥ってしまう。つまりこうだ。「私」が「私」を観ている、ということを意識する「私」が存在する。ヘーゲルは、これを「運動」という概念で解消した。しかし、早世した哲学者池田晶子は、終生この「私」とは何かにこだわった。私にはそんな難しいことはワカラナイ。考え出したらワカラナイ、きりのナイことなど五万とあるので、ここは考えない。ただ、33におけるヘーゲルの命題「意識は或るものを己れから区別すると同時にこれに関係しもする」については、異論がある。(注:反論ではナイ)この命題のとおりに「現実」と「虚構」というものを考えてみる。私という意識は「現実」と「虚構」という対象を「区別」しているが、同時に両者と「関係」している、という論理は、一種の錯覚、錯誤だと考えている。
ヘーゲルの意識の定義でいくと、「現実」も「虚構」も、「私の意識しているもの」として存在する。それには問題はナイ。しかし、私たちは、「現実」「虚構」と、どういうふうな「関係」をもっているのだろうか。「これは現実だ」と意識する。「これは虚構だ」と意識する。違ったいい方でいえば、意識は「これは現実だと認識する」「これは虚構だと認識する」。そこで、机だ。机というのは「現実」か、「虚構」か。そりゃ、現実でしょう、だって、叩けばコンコン、コツコツいうよ。と、ここに半畳入れたいのだ。ヘーゲルの命題を逆にたどれば、机自体の対象(現実)は意識の中にはナイ。それは意識が机だと認識した対象としての机だ。では、意識は机をどう認識したのか。机だと他のものから「区別」したから机が在るということになる。「区別」するということは「判断」を下すことだ。この「判断」(の規準)はどこからやってくるのだろうか。それをヘーゲルでいえば、「関係しているから」ということになるが、では、どう関係しているのかと、なおも問い詰める。もし、この「関係」の仕方が個々さまざまなら、机は、さまざまな「私」にとっての、その中の「私」に対して机でなければならない。確かに机は現実に在る。ただその存在はさまざまだ。ここに「虚構」というものが生じる原点があるような気がする。これについては、以前、ブログで書き綴ってきて、中断しているものだ。いまでも、だいたいの答え方は可能なのだが、私はこの現実と虚構という対象を、鬱病の正体(鬱病とは何か)に答えられるところまで、考えてみたいのだ。何故なら、私の生涯は、鬱病によって成立し、またそれに因って壊されてしまったアンビバレントなものだからだ。もう少し閃きと、時間がかかりそうな気がするが、いけるところまではいってみたい。