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2012年2月10日 (金)

観客の審査

明日から東海支部の恒例『劇王』が二日間にわたって、長久手文化の家で開催される。今年で9回目になるこの催しで、いつも私がオモシロク思っているのは、観客の票だ。ゲスト審査員の票はそれぞれの持ち数がずいぶんと多いのだが、観客数から割り出されるので、ほぼ半々の勢力図を描くと思ってイイ。票は評だ。審査員の票の総数を足しても、観客票が多くて、作品が上位にいくこともしばしばある。もちろんその逆もある。さて、ゲスト審査員が、それぞれの作品に対して講評を述べるとき、このときは、観客がゲスト審査員を審査するというベクトルをとる。観客にしてみれば、自らが投じた票の作品を、審査員が如何に説得力をもって説得してくれるのか、を、期待している。というよりも、きびしくいえば審査しているのだ。観客は個であると同時に、ある共同性を持っている。観客は、自分と自分(たち)の票=評の何処が審査員とチガウのかを、いってみれば大衆として観ているのだ。視線をゲスト審査員からのほうから向きかえれば、ゲスト審査員は大衆を相手にしていることになる。つまり、ゲスト審査員の審査の声は、観客という大衆に向かってとどいていかねばならない。と、こんなこというと、ナニいってんだ。審査は審査、審査員の審査は審査員の審査で、観客がどうの大衆がどうのなど関係ナイ、というゲスト審査員の反駁が聞かれそうだが、おそらくゲスト審査員が最も神経を尖らせているのは、劇場(会場)の大衆に対する自らの位置づけだ。NHKの紅白歌合戦の勝敗など、手練手管の演出にかかれば、如何様にも出来る。もとより、囲碁、将棋の名人戦ではナイのだから。
ゲスト審査員もプロなら、観客も観客というプロと考えてイイ。「なんだか、難しいことをいうてらしたが、芝居なんて、そんなに難しいもんでなかろ」という観客の声は、暗黙のうちに、いつも劇場を支配しているし、また、逆に「芝居というのは、学問や教養がナイと出来んもんだからな」も、そうだ。「わたくしなんか、東京の芝居しか観ないざますから。やっぱり、テネシー・ウイリアムズの『欲望』の電車がどうのとかを観ると、テネシーはケンタッキーとは違うのがよくワカルわよねえ」「日本の芝居は貧相ですもの。せめて稲川だっけ、(蜷川と間違えている)とかだとねえ」。
大衆というものは、自分が乗っている自動車の価値と、自分の価値とを同等のものとして勘定するものだ。「こんなの私のワーゲンに比べれば、ダイハツの軽みたいなもんじゃナイ」という論理だ。
ゲスト審査員は、あくまでインテリか、それとも、「ヴ・ナロード」か。
切なる観客の願い。せめて「私がブロードウェイで観た・・・」などという洋行帰りの口ぶりだけはご勘弁。(接待係にしては、フザケ過ぎたようで、これもご容赦、ご許容、深き懐へ)

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