如是想解・15
35 現実と虚構
『恋愛的演劇論』で、進めてきたことをまとめてみる。
・「現実」というものを二つのカテゴリー(概念)に分けた。「現実という概念(category)は、「誰々にとって」という条件なり前提を含む」また「それが先験的であるのか、結果的事象であるのか」というとき、の現実は「誰にとっても」ということがいえる。
・現実というものはメタファー(比喩・譬・metaphor)でもフィクション(虚構・fiction)でもナイ。
・現実を「語ること」という営為がすでに演劇だ。何故ならコトバというものは、すべてメタファーを含んでいると考えてイイからだ。その個人の心的表出が言語(書き言葉にせよ、音声にせよ)という表現に置き換えられるとき、そこには、必ずメタファー(比喩・譬)がある。
・「語る側、書く側」が語ったもの、書いたものは「語る側、書く側」に対して逆に変容を強いることはナイのだろうか。-これは、ある-。自分が自分に向けたコトバによって自分は虚構化される。このときの虚構化というのはナニなのかといえば、現実の「私」はたしかに存在するのだが、それに対して、変容した自分もいるのだ。これを「二重化」ということにする。それは短歌の「コップ」が、現実のコップでもあるが、虚構においてmetaphorを持った「コップ」になっているのと同じことだ。この「二重化」は「コトバ」の持つ、一つの宿命のように思われる。
・「もの」は、「語る側、書く側」の心的表出に忠実に、語られ、書かれているのだろうか。
・~きみがいま飲みのこしたる水割りのコップみつめる恋の終わりは~のように、(短歌などの)虚構のうえで、表現されたコップは、すでに現実のものではナイ。作者(の心象とコップという対象)による「関係と了解」よって、変容されたmetaphorであり、fictionだ。
・「恋」も「愛」も、「コトバ」のうえからだけ考えてみれば、それはそれ自体がすでにfictionであり、metaphorだということは明白だし、「二重化」された意味での現実性(reality)を同時に含んでいる。このとき、「二重化」された恋や愛は(その「コトバ」は)現実の方向にも向かうことが出来るし、虚構の方向へ向かうことも可能だ。これを相対性理論でいう「等価原理」として扱っていい。
・「高いビル」というコトバに数多の表現を意味づけて関係させてみれば、メタファーには「現実」を越える「力」があると考えられる。これは、そのまま「虚構」にはある意味で「現実」を越える「力」があるということを示唆しているのではないか。
・「コトバの力」はとりわけ「虚構」において強く発動する。何故なら「現実」はメタファーではナイからだ。メタファーは「現実」を「虚構化」するときに、初めて現れる。
これは、『続・恋愛的演劇論』へと移行させるつもりだ。もちろんあれから、如是想解13・14などのようなことをぐだぐだと考え(ともかくも、銭にもならぬことばかり考えているのだが)、上記のまとめの反省点も含め、14で記したように、この作業は続行していく。いまのところ、なんとなく近似値辺りをグルグル回っている感触だけは持っている。