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2012年2月26日 (日)

続・恋愛的演劇論・1

私たちが異性に対して「好きです」「愛しています」と告白するとき、待ち構えている答が「そんな女だと思わなかった」であり、「こんな男のどこが良かったのかしら」だ。これらは多かれ少なかれいずれやってくる。もちろん、幸いにも、「きみと逢えて幸せだった」というのも希少ではあるが、存在するだろう。昨今のアメリカTVドラマを観ると、どんなドラマ(例えば刑事ドラマでも、法廷ドラマでも、スパイドラマでも)にせよ、夫が妻に対して如何に気を使うかが描かれている。やっぱ、プロテスタントの国は違うね、ではすまされない。家族(ファミリー)を至高のものにするのは、マフィアだけではナイようだ。近頃流行りの病もの映画にしても、死ぬのは「最愛のひと」ということになっている。当然のことで、隣人が不治の病で死のうが、知ったことではナイ。他人の不幸はあくまで他人の不幸だからだ。ところで、男性の側からしか述べないが、「そんな女だと思わなかった」という場合、いったいその女性をどんな女だと思っていたのだろうか。おそらく、どんな女だと思おうと、それは男性の創り出した「虚構」でしかナイ。つまり、興信所を使ってその女性の生まれ育ちから、男性遍歴、その他モロモロを詳細に調査してからコクるなどという者はまず、いない。その女性が「イイ女」であるという根拠には何のエビデンス(科学的根拠)もナイ。たいていが思い込みという「虚構」であり、自分自身が勝手に想像した虚像に惚れているだけのことだ。
元妻さんと、小さな喫茶店を始めて住んだ家の近所に「うどん・丼」の店があった。若い女性がひとりで切り盛りしていて、テーブルはなく、カウンターだけの、ほんとうに小さな店だった。だから、主に出前で稼いでいたようで、店の女主人はエプロン姿に白い姉さん被りをして、明るい気さくな、可愛いひとだった。店の壁には、「一緒に○○までピクニックプラン」なんてのが貼りだされ、そうやって顧客サービスをしているのだなあと、その女性の性格がワカルようで、時々、うどんを食べにいったりしていた。接客も庶民的で愛想が良く、とくにうどんが美味いワケではなかったが、作って出して出前するときには「ちょっと出前して来ます。すぐもどります」と客に声をかけて、おかもち片手に出て行くのだった。
これがどういうワケか、いや、そういうワケであるからなのだろう、その店を貸している土地の大屋に惚れられたか、惚れられたんだろう、見初められて結婚した。大屋には高校生と中学生になる息子がいたから、年の離れた後妻ということになる。まさかそのままうどん屋をやらせておくワケにもいかないので、そこにちょっとした豪邸が建てられ、一階部分が妙に立派な喫茶店になった。女主人は一夜にして、豪奢な喫茶店のオーナーになったというワケだ。その姿を私はその喫茶店で一度目撃したことがある。いやあ、ここまで変わるものかと驚いたのには、エプロンに姉さん被りが、ノースリーブのチャイニーズドレスで立っていたからだ。変わったのはそれだけではナイ。あの愛想のイイ顔つきはもうなくなり、化粧も派手になって、ツンとすました女性に変身していた。彼女は変わったのか、うどん屋の彼女が現実だったのか、あるいは、そこに立つチャイナドレスの女が現実なのか、さすれば、あの庶民的な出前の姿は虚構であったのか、いやいや、ノースリブこそ虚構であるのか、ほんとうのところはどっちが現実で、どっちが虚構なのか、私は不思議な面持ちで彼女をみつめていた。
ところで、土地柄、豪奢な喫茶店など流行るものではナイ。店の結構や内装は豪華だが、売られているものは、普通のコーヒーに、ランチ、焼きそば定食ときている。ただ、価格がやや高いのだ。で、結婚はというと、ケンカが絶えず、子供も巻き込んでの騒がしい声を何度も耳にした。それから、半年、彼女は違う男性と失踪してしまった。私はなにも教訓をいおうとしているのではナイ。その辺りから「現実」と「虚構」というものが、よくワカラナクなってしまったのだ。と、いま、なるほどとそれを憶い出している。「現実」と「虚構」。演劇の本質と情況を解くカギは、そこにしかナイと最近、確信するようになった。

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