如是想解 ・13
33 逃避
網野善彦の歴史観にアジール(避難所)というものがある。ここでは詳しくは書かないが、たとえば劇団というのもそれに該る。避難所であるのだから、文字通り「逃避」する場所ということになる。しかし、ひとは、「逃避」することは本質的に不可能な存在だ。何故なら、この世間から逃避したとして、そのひとは「自らが意識することの世間」から逃避しているのに過ぎないのだから、「自らが意識する世間」というのは、いくら現実世間から逃避してもついてまわるという寸法だ。この「自らが意識する」というのはヘーゲルの『精神現象論』に現れる。ヘーゲルの『精神現象論』はまず「意識」をとりあげる。もちろんカントの『純粋理性批判』もそうだ。ヘーゲルはカントの難問[意識と対象の認識の一致を如何に探求するか]を、いとも簡単に乗り越える。「対象もまた意識の内観に過ぎない」という答えでもって。これについても、ここでは便宜上、詳細を避ける。ただひとつ、ヘーゲルの意識の定義、「意識は或るものを己れから区別すると同時にこれに関係しもする」という命題があればイイ。「或るもの」というのは「対象」のことだ。そこで、これと関係するというのを「対他的」と称し、意識それ自体を「即自的」と称してみる。「関係する」というのは、あくまで「対他的」であるから、その対象も「意識」の中に含まれるということになる。哲学的にはこれで充分だ。つまり、「私」というのは、私と世間とを区別しもするが、それとどうしても関係してしまう。「私」がある限りは。従って、世間から逃避しても、「私」がある限り、世間はその「私」の中に含まれる。初期仏教はこれを知っていた。また、後期仏教の禅宗も、それを知っていた。私を無にすることは不可能だから、出してきた答えが「私にとらわれない」という修行だ。つまり、「逃避」というとき、その「逃避」そのものの中に「逃避すべきもの」が含まれているので、本質的に「逃避」するということは不可能なのだ。もし、逃避出来たとおもっている輩がいるとしたら、それは単に、一時的な「忘却」に過ぎない。