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2012年2月26日 (日)

如是想解・37

38 鬱病は沈黙する
仮に鬱病を疾病として扱ってみる。結核はかつて死病と呼ばれた。治しようがなかったからだ。しかし、現在は完治する(その罹患者数は上昇しているが)。癌もまた、その部位によっては治すことが出来る。方法が確立しているからだ。インフルエンザも治る。しかもそれらの疾病は難病ではナイ。つまり、何十万、何百万人に一人という希な疾病ではナイ。同様に鬱病も希なものではナイ。「ココロの風邪」というくらいだから、罹患者は多い。現在推定100万人というのは、治療を受けている罹患者のことで、医療の側からも、なんだかワカラナイから鬱病というのも存在するだろうし、別の病名をつけられて治療を受けている者も存在するはずだ。また、治癒しても再発する者が多いのも、この疾病の特徴だ。私は鬱病に対して次のような帰納法的命題をたててみた。
・鬱病を個人の固有的な疾病と考えてはいけない。
いいかえれば、鬱病を、その個人の個人史の中で生じたものと考えるべきではナイ。何故ならば、そうすると、鬱病はその個人(の固有性)と環境世界との関係だけに萎縮、閉塞されてしまう。おそらく、現在の鬱病治療に欠陥があるとすれば、そういう原理的な考察の不備からきているものだと思われる。
ユングがフロイトと決裂した原因は無意識の扱い方についてだ。フロイトのいいぶんは、無意識とは意識があっての存在だが、ユングにおいては、無意識はそれ自体で存在する。私はユング派ではナイが、ユングが説いた集団的無意識というのは、偶然ではあるが、ある照準を捉えていたように思う。つまり、個人は個人史だけで存在しないという点でだ。鬱病を考える場合も、個人史の中に、類的な歴史を取り込めなくては、この疾病の原因はつかめないような気がする。つまり、鬱病とは疾病として扱っても、個人←→環境世界という関係と了解のもとに在るのではなく、個人の持つ、人類史的な、個人史以前の類として(原個人史)の、考察が必要だ。何故ならば、そのエビデンス(根拠)としていいえることは、鬱病罹患者は「沈黙する」ということだ。ペラペラ喋る鬱病罹患者はおそらくいない。この「沈黙」は、コトバが無いとうことを意味していない。コトバが「私」と「私」のあいだでしか交わされないということを物語っている。コトバが表出されない。表現されない。この言語以前の類的歴史に目を向けなければ、鬱病はその原因を明らかに出来ない。それは、あたかも、演劇が、劇として始まる以前の様相とよく似ている。

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