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2012年2月

2012年2月28日 (火)

SLOFT/Nの贈与交換について

贈与交換というものについて「私なりの」意味づけをしておく。もともとの概念はポトラッチという、相互に贈り物をしあって(交換して)一種の経済活動とすることを意味するが、これは、次第に両者がより多くのものを贈与するために、どちらかが損失を被るものとして、禁止された。しかし、その形態は、経済学の範疇で研究に値するものとして、残っている。ざっくりいってしまうと、私の考えは以下のようになる。
・贈与交換という場合の「交換」とは、何を何と「交換」するのか。
個人の労働(その時間・その商品)を提供し、それを貨幣と交換するのではなく、相手方から受け取るものを「資本」として、それと交換する。
これが、その概念だ。これをもう少し詳しくみていくと、贈与交換につきものなのは、無償で個人の労働を贈るのだから、贈る側は損をしているのではナイかという誤解だ。それならば単なる「贈与」でしかナイ。問題は「交換」にある。普通、私たちは労働によって「商品」を産み出す。その「商品」を売ることによって「貨幣」という利潤を手に入れる。これが「交換価値」と称されるものだ。そうして手にした「貨幣」というものを食料や衣料などの生活用品に変え、あるいは娯楽としての費用に充てる。これを「労働の対象化」あるいは「対象化された労働」というふうに称する。つまり、労働というものは、それ自体には何の価値もナイ。価値を産み出すのは、この「対象化された労働」だ。「贈与交換」は、この交換価値から「商品」を消去する。何故なら、「贈与」は「商品」ではナイからだ。つまり、労働と貨幣の仲立ちをしていた「商品」というものを削除するのが、「贈与交換」だ。では、「商品」を削除、消去するというのはどういうことか。ここで、「商品」というものが、それを創作した個人に対してどういう関係をとるかを考えてみよう。具体的に芝居における衣裳というものについてみてみる。いま服飾家が舞台衣裳を製作したとする。ドレスが一着出来上がった。このとき重要視されるのは、もう服飾家ではなく一着のドレスのほうだ。服飾家にとっても、服飾家個人より、製作したドレスを重要視する。ここで、服飾家という個人と、ドレスの主従が入れ替わる。服飾家は個人を売るのではくドレスを「商品」として売る(貨幣と交換する)からだ。そこに服飾家のネームバリューが入っていようと、ブランドものであろうと、ドレスという「商品」がなければ「交換」は出来ない。服飾家のネームバリューや、ブランドは、ドレスの「使用価値」に付加された「交換価値」なのだ。ドレスはドレスだが、ナニナニという有名デザイナーが創ったものであるなら、その使用は同じでも交換としての価値は上昇する。しかし、そこでも、ドレスと服飾家の主従は入れ替わっている。というのは、そのネームバリューを持ったドレスが服飾家よりも主となるからだ。かくして「商品」は「貨幣」との仲立ちをする場合、個人との主従の転換をやってのける。「贈与交換」はこの「商品」という仲立ちを消去する。そこには労働で生じた「商品」というものはナイ。何故なら贈与だからだ。あるのは、純粋な労働の「交換価値」だけだ。これを、贈与者は、「資本」と交換する。ここは資本主義とか、資本制経済とかの呼称に耳慣れている私たちにとっては、難しいところだ。しかし、前述した「対象化された労働」の「労働」を「資本」に置き換えてみると、何となくワカッテくる。労働が対象化されるのなら、「資本」もまた対象化されうる。つまり、「贈与交換」で「交換」されるものは、個人が贈与として差し出したものを受け取ったものから、逆に受け取って然るべき「資本」だ。ここにおいて、「贈与交換」は経済学から離脱する。贈与した個人に資本として返ってくるものは「商品」を仲立ちにしないので、主従の転換を起こすということがナイ。そのまま創作者を主として、創作者その個人に交換される価値ということになる。

2012年2月26日 (日)

続・恋愛的演劇論・1

私たちが異性に対して「好きです」「愛しています」と告白するとき、待ち構えている答が「そんな女だと思わなかった」であり、「こんな男のどこが良かったのかしら」だ。これらは多かれ少なかれいずれやってくる。もちろん、幸いにも、「きみと逢えて幸せだった」というのも希少ではあるが、存在するだろう。昨今のアメリカTVドラマを観ると、どんなドラマ(例えば刑事ドラマでも、法廷ドラマでも、スパイドラマでも)にせよ、夫が妻に対して如何に気を使うかが描かれている。やっぱ、プロテスタントの国は違うね、ではすまされない。家族(ファミリー)を至高のものにするのは、マフィアだけではナイようだ。近頃流行りの病もの映画にしても、死ぬのは「最愛のひと」ということになっている。当然のことで、隣人が不治の病で死のうが、知ったことではナイ。他人の不幸はあくまで他人の不幸だからだ。ところで、男性の側からしか述べないが、「そんな女だと思わなかった」という場合、いったいその女性をどんな女だと思っていたのだろうか。おそらく、どんな女だと思おうと、それは男性の創り出した「虚構」でしかナイ。つまり、興信所を使ってその女性の生まれ育ちから、男性遍歴、その他モロモロを詳細に調査してからコクるなどという者はまず、いない。その女性が「イイ女」であるという根拠には何のエビデンス(科学的根拠)もナイ。たいていが思い込みという「虚構」であり、自分自身が勝手に想像した虚像に惚れているだけのことだ。
元妻さんと、小さな喫茶店を始めて住んだ家の近所に「うどん・丼」の店があった。若い女性がひとりで切り盛りしていて、テーブルはなく、カウンターだけの、ほんとうに小さな店だった。だから、主に出前で稼いでいたようで、店の女主人はエプロン姿に白い姉さん被りをして、明るい気さくな、可愛いひとだった。店の壁には、「一緒に○○までピクニックプラン」なんてのが貼りだされ、そうやって顧客サービスをしているのだなあと、その女性の性格がワカルようで、時々、うどんを食べにいったりしていた。接客も庶民的で愛想が良く、とくにうどんが美味いワケではなかったが、作って出して出前するときには「ちょっと出前して来ます。すぐもどります」と客に声をかけて、おかもち片手に出て行くのだった。
これがどういうワケか、いや、そういうワケであるからなのだろう、その店を貸している土地の大屋に惚れられたか、惚れられたんだろう、見初められて結婚した。大屋には高校生と中学生になる息子がいたから、年の離れた後妻ということになる。まさかそのままうどん屋をやらせておくワケにもいかないので、そこにちょっとした豪邸が建てられ、一階部分が妙に立派な喫茶店になった。女主人は一夜にして、豪奢な喫茶店のオーナーになったというワケだ。その姿を私はその喫茶店で一度目撃したことがある。いやあ、ここまで変わるものかと驚いたのには、エプロンに姉さん被りが、ノースリーブのチャイニーズドレスで立っていたからだ。変わったのはそれだけではナイ。あの愛想のイイ顔つきはもうなくなり、化粧も派手になって、ツンとすました女性に変身していた。彼女は変わったのか、うどん屋の彼女が現実だったのか、あるいは、そこに立つチャイナドレスの女が現実なのか、さすれば、あの庶民的な出前の姿は虚構であったのか、いやいや、ノースリブこそ虚構であるのか、ほんとうのところはどっちが現実で、どっちが虚構なのか、私は不思議な面持ちで彼女をみつめていた。
ところで、土地柄、豪奢な喫茶店など流行るものではナイ。店の結構や内装は豪華だが、売られているものは、普通のコーヒーに、ランチ、焼きそば定食ときている。ただ、価格がやや高いのだ。で、結婚はというと、ケンカが絶えず、子供も巻き込んでの騒がしい声を何度も耳にした。それから、半年、彼女は違う男性と失踪してしまった。私はなにも教訓をいおうとしているのではナイ。その辺りから「現実」と「虚構」というものが、よくワカラナクなってしまったのだ。と、いま、なるほどとそれを憶い出している。「現実」と「虚構」。演劇の本質と情況を解くカギは、そこにしかナイと最近、確信するようになった。

如是想解・37

38 鬱病は沈黙する
仮に鬱病を疾病として扱ってみる。結核はかつて死病と呼ばれた。治しようがなかったからだ。しかし、現在は完治する(その罹患者数は上昇しているが)。癌もまた、その部位によっては治すことが出来る。方法が確立しているからだ。インフルエンザも治る。しかもそれらの疾病は難病ではナイ。つまり、何十万、何百万人に一人という希な疾病ではナイ。同様に鬱病も希なものではナイ。「ココロの風邪」というくらいだから、罹患者は多い。現在推定100万人というのは、治療を受けている罹患者のことで、医療の側からも、なんだかワカラナイから鬱病というのも存在するだろうし、別の病名をつけられて治療を受けている者も存在するはずだ。また、治癒しても再発する者が多いのも、この疾病の特徴だ。私は鬱病に対して次のような帰納法的命題をたててみた。
・鬱病を個人の固有的な疾病と考えてはいけない。
いいかえれば、鬱病を、その個人の個人史の中で生じたものと考えるべきではナイ。何故ならば、そうすると、鬱病はその個人(の固有性)と環境世界との関係だけに萎縮、閉塞されてしまう。おそらく、現在の鬱病治療に欠陥があるとすれば、そういう原理的な考察の不備からきているものだと思われる。
ユングがフロイトと決裂した原因は無意識の扱い方についてだ。フロイトのいいぶんは、無意識とは意識があっての存在だが、ユングにおいては、無意識はそれ自体で存在する。私はユング派ではナイが、ユングが説いた集団的無意識というのは、偶然ではあるが、ある照準を捉えていたように思う。つまり、個人は個人史だけで存在しないという点でだ。鬱病を考える場合も、個人史の中に、類的な歴史を取り込めなくては、この疾病の原因はつかめないような気がする。つまり、鬱病とは疾病として扱っても、個人←→環境世界という関係と了解のもとに在るのではなく、個人の持つ、人類史的な、個人史以前の類として(原個人史)の、考察が必要だ。何故ならば、そのエビデンス(根拠)としていいえることは、鬱病罹患者は「沈黙する」ということだ。ペラペラ喋る鬱病罹患者はおそらくいない。この「沈黙」は、コトバが無いとうことを意味していない。コトバが「私」と「私」のあいだでしか交わされないということを物語っている。コトバが表出されない。表現されない。この言語以前の類的歴史に目を向けなければ、鬱病はその原因を明らかに出来ない。それは、あたかも、演劇が、劇として始まる以前の様相とよく似ている。

2012年2月25日 (土)

死んで貰います

映画『昭和残侠伝』のシリーズ第七弾のタイトルが『死んで貰います』(監督・マキノ雅弘、主演・高倉健、池部良)だ。今夜観て(もう五回以上観ているのだが、今夜はいままでになく大泣きしたナ)、せりふのあまりの少なさに気付いてちょっと驚いた。ストーリーも殆どplotというふうで、ともあれ、このシリーズはストーリーはお決まりだからあまり込み入ったことは必要ナイのだが、にしても、無駄なせりふが一切ナイ。そういえば、映画史に残る3時間半の大作、黒澤明監督の『七人の侍』もせりふのある部分は、30分程らしい。ヤクザ映画(任侠映画ともいう)と侮るなかれ。要するに、このシリーズは、虚構であるが、テーマはひじょうに現実的で、山本哲士さんのコトバを借りれば「事実と現実との世界がいつも理念の失敗のようにかかわってくるということ。つまり、理念がいつも失敗と挫折によってしか実現されないという、理念と現実との関係をどう考えるかである」(『吉本隆明の思想』・三交社)と同位相にある。山本さんのコトバは、『心的現象論』の読解(「了解の様式」)から私が適宜引用したものだが、もちろん、私も演劇や鬱病について考えるときには、『心的現象論・序説』と、『本論』から、ヒントを得ている。それを大っぴらに述べないのは、私の読み方など、誤読の域、浅読の域をこえないからだ。間違っても「心的現象論によると」などといえる程度の学は私にはナイ。ただ、心的現象と精神現象の区別くらいはワカル。私は『心的現象論・序説』を10年間に3回読んで、最初はまったくワカラズ、しばらく勉強して二度めは何とか読み通すことが出来、さらにさまざまな学問を積んで(といっても大袈裟なことではナイ。積ん読、あるいは渡り歩いた程度、で)三度目でやっと漠然と読めるようになった。つまり、いまなお学んでいる途上ということになる。ただ、それは、おおよそのbackupというチカラにはなる。しばらく他の学を試行錯誤して、このような方向でいいのかなと、吉本さんにもどると、たいてい間違ってはいないので、ちょっと安心することが出来る。つまり一種のチャートの羅針盤のような存在だ。
私はいま、演劇の情況と、社会的な疾病となった鬱病とから、共通のコードを引き出し、これにベクトルを設定しようという面倒な仕事をしているが、この課題に対しての勘は外れていないという確信を持って臨んでいる。私の考えでは、どちらにも、現実と虚構、事象と現象、事実と表現、の駆け引きがなされているはずなのだ。
でと、すっ飛んで結語にするが、SLOFT/Nの理念である贈与交換を援助交際と同じレベルでしか理解出来ない御方には、死んで貰います、だ、ナ。まあ、オレもそう長くはナイし、いまは映画の中の健さんみたいな気分だからナ。

2012年2月24日 (金)

如是想解・36-2

37 具体的にいえば
前項36を具体的に述べれば、意外に簡単なことをいっているに過ぎない。私たちのカラダは免疫のように異物を体内で殺す。大腸菌もまた似た働きをする。これらを解りやすく「咳」「クシャミ」「下痢」「発熱」で考える。「咳」は、喉に入ってきた異物を繊毛が外に出そうとする作用だ。「クシャミ」は同じく鼻に。そうして、「下痢」は胃腸にある毒気を排出しようとし、「発熱」は体温を高めることによって、免疫抗体の働きを助けるため、風邪、感冒の初期の熱はこれを無理に下げるべきではナイのは、医療の常識となっている。同じことを「鬱病」というものに当てはめてみる。前述した「咳」「下痢」は疾病そのものでない。疾病による「症状」だ。そこで「鬱病」を、その「症状」に対応させて、「現象」と捉える。「咳」や「下痢」は苦しいものだ。だから鎮咳剤や下痢止めのクスリが存在する。鬱病という「現象」は苦しいものだ。つまり「現象」そのものが、現象を起こしている当人を苦しめる。人類は、進化の過程によって、体内の毒気、異物を排出する手段をその身体に所有した。もし、「鬱病」が疾病ではなく、その現象であるとするならば、人類は未だ、その苦しさに耐えうる力を備えていないということになる。それは如何にも免疫が暴走している姿に似ている。その「疎外」を解消するには、存在の抹消という他に手だてがナイ。つまり自殺だ。では、解消ではなく、これを克服するという手段はないのだろうか。いまのところ、私自身も、その手段を知らない。「咳」や「下痢」というものですら苦しいのだから、鬱病の苦しさに耐え得るのは至難の業というしかなイ。
鬱病を「ココロの風邪」とうのは、ある程度は正しい。「咳」も「発熱」もそのアトにやってくる胃腸に下りてきた細菌の起こす「下痢」も、排出、排斥としての症状だからだ。しかし、風邪、感冒で死ぬことは、それが肺炎などに二次感染しない限りは、まずナイ。だが、鬱病は、自殺すること、「私」を抹消することによって、これを解消しようとするものだ。この心的「現象」を如何にすべきか。一つだけエビデンスではなくいえることは、「闘えない」ということだ。何故なら闘う相手は、私自体だからだ。「私」が「私を対象とした私」と闘っても、その闘いは循環するだけだ。つまるところ「私」は「私」のことなどワカラナイのだから。

如是想解・16

36 鬱病についての一見解
いまもって謎、年間3万人の自殺者を出し、日本だけでも推定100万人の患者が存在し、患者は日増しに多くなり、という鬱病について。私自身30余年の鬱病者なのだが、最近では躁鬱の双極性が強く、ひどいときは、時間単位で入れ替わる。
で、これは、その経験から述べることではナイ。悔しいので、私なりにこの疾病について考えはしている。その一見解としていう。
鬱病発症の原因は、心因性(精神的疾患)とか、内因性(遺伝的疾患)とか、外因性(事故的疾患)とかではナイ。これらは、原因をあくまでも、患者の個人性に求めるが、もちろん、病気になるのは個人だから、個人の疾病ということにマチガイはナイ。しかし、原因は、個人自体にはナイ。この現在の環境世界の状況そのものと、個人との「関係」を個人がどのうように「了解」して、どう対処、対応しようとしたのか、その結果が原因だと仮定する。アタリマエじゃないか、どんな病気だってそうだろうといわれそうだが、鬱病の場合、少々異なる。つまりインフルエンザなどのように流行性疾患が世間で流行して、ウイルスに感染するという関係ではナイということだ。鬱病は、免疫疾患に似ている。免疫疾患とはまったく疾病として異なるが、構造的にはよく似ている。
まず、没個的、つまり「私」というものの意識が「私」にしかナイ「即自的」な「私」を想定する。「私」は「私」としか関係していない。その「私」を環境世界-世間(社会)という情況に置く。このときの関係は対環境世界(対他)的なものとなる。心的現象はそこで終わらない。それが「了解」という作用で「私」にもどって来る。これが「対自的」なものだ。「とかく世間は住みにくい」というのはこれに該る。「私」はそれによって受けたストレス(と、暫定的にいっておく)を解消するかのように、身体の毒(鬱積)を排泄しようとする。自らの内部に生じた「私←-→私が意識している環境世界と私」の軋轢を排斥、排出しようと努める。そのこと自体が疾病として現れる。うまく排斥、排出出来ないから、というのではナイ。排斥、排出する営為そのものが「疎外」(自らが創り出した営みが、逆に自らを苦しめる)となる。これはまるで、体外から侵入してきた異物を攻撃する免疫抗体が、なんらかの錯誤作動でリウマチや膠原病などを引き起こす、自分自身を守るためのモノが自分自身を攻撃する免疫疾患に似ている。脳分泌の異常は、原因ではなく、そのために生じた何らかの、脳の対応の結果であることはいうまでもナイ。鬱病に対して未経験のものには、何をいわれているのかサッパリだろうが、概論として、この程度のことはいえると思う。

2012年2月23日 (木)

映画感想『SPEC・天』

困りましたネ。テレビのスペシャル『翔』の前に映画観なければなりません。で、感想書いてしまうとネタバレになりますから、内容については書きません。ただ、この映画が低予算だということはワカリマス。というか、それほど銭をかけなくても、知恵と工夫と技術という監督の才能と、役者のカラダで映画は撮れるということです。充分、撮れます。撮ってんだから。戸田恵梨香さんが、舞台は三年に一回くらいでイイと(『寿歌』の打ち上げで)いみじくも述べられた理由もワカリマス。実に編集が上手い。映画というものは、役者のカラダで撮るもんだということを、最新のtechnologyを使って、(これは、低予算で映画を撮る方法として使えるんです)そのtechnologyをみせずに、ちゃんと役者のカラダをみせてますから。演劇でいうと、演出の痕跡を舞台に残さない、演出をみせないということなんですが。西萩弓絵さんの脚本もイイです。ともかくも格闘のアトがワカル本です。脚本にもちゃんと肉体があります。病ものや、悲恋ものなんて糞喰らえです。悲恋なんてしたことのナイ連中が、したような気になって観る、肉体のナイ、観念だけの映画など、どこに価値あるんですか。「相変わらずバカなことやってます」なんて、堤監督、新国立でちょいと立ち話したとき仰ってましたが、私も、堤監督も、西萩さんも、同世代なんです。ギャグも殆どみんな、その世代にしかワカランものばかりです。それが「バカなこと」というワケではありません。Don Quijoteだって、Hamletだって、「バカ」じゃナイですか。御前会議なんて出てくるんですが、そんな会議、いまの若いひとには何の会議かワカランでしょう。何でそれが出てくるのかも、っとネタバレ寸前です。続編、間違いなくあると思います。ただし、これは知っての上でのことなんでしょうけど(つまりフィクションとしてのことなんだろうけど)、冒頭に「人間の脳は10%しか使われていない」と字幕が出るのは脳科学からきているコトバではなく、単純に譬えとして、アインシュタインがいった(ということになっている。つまり「もっと頭を使え」ということ)もので、脳科学とは何の関係もありません。脳は100%稼働していますが、とはいえ一つのことに100%使っているワケではありません。私の脳はこの映画に100%満足しました。

2012年2月22日 (水)

三題噺のような

アルコールはウイスキーの水割りを毎晩飲むが、とくに飲みたいというワケではナイ。他にすることがナイので、じっとしているのもツマラナイから、シングル・モルトでも飲んで、妄想、空想、思考、思案、思いついたらメモ、てなことになる。することがナイというより、その時間(たいてい9時前)になると、もう眼がダメで、書くのも読むのも出来ないから、頭だけを使うしかしょうがないのだ。一昨日の夜10時半頃、登録していない番号の電話。誰だかワカラナイ。はい北村ですというと、渡辺えりですという。これはめずらしい。どっかで、彼女のことについて何かいったのが、癇に触っての抗議かなと思ってたら、私が、日本劇作家協会を除名(というより、会費の支払いをやめて退会したのだが)されたことについて、その日の役員会で知って、慰留のお願い。お願いというより、切々たる訴え。劇作家協会も年齢の高いひとが少なくなって、私が辞めるとなるとさみしいというのだ。おセンチでいっているのではナイ。いわゆるいまの演劇状況は、新劇に先祖還りした有り様で、リアリズム演劇がちょっとカタチを変えて主流になっている。たしかに、なんつうのか、非文学的演劇なんてのもある。こっちは、パフォーマンスと演劇のハイブリッドだが、かつての如月小春のような理論的なものはなく、まったく脆弱。そういう中で、つまりは、私やえり子さんのやってきた演劇を知らん連中が芝居しているのが、どうやらさみしいらしい。私も同感。やはり彼女とは同時代的に芝居してきた盟友のようもんだからな。そういう危機感を察するのも、彼女の細心なところで、それをすぐに私に電話してくるのが大胆というか、積極性。奇妙なユング的同期性で、その日の昼間、私は弟から借りたDVD『恐怖劇場・アンバランス』を観ていた。このドラマは青島幸男がナビゲーターを勤め、怪奇というより実験的な作品を円谷英二の監修で、むか~しやってたもの。私がその日観たのは『仮面の墓場』、なんとまあ主演が唐十郎さん、ヒロインが緑魔子さん。脚本は市川森一さん。みんな若かったんですねえ。で、えり子さんからの電話。そうだなあ、もう、若い演劇人は、唐さん全盛の頃のあの躍動的演劇は知らんだろうなあと、しみじみ。と、もう一つ、ダイニングキッチンの(ここで飲んでる)テーブルの映画のチラシのキャッチコピーが「映画のために死ね」なんだけど、上にメモ用紙が被さって「死ね」だけが読めてしまって、こちとらヤナ気分。死ぬんじゃないかなと予感してた時。その時、電話。そんでもって、えり子さんのいうことはもっともだなと、何の役にも立たないけど、名前を残す程度でいいならと、承諾してしまった。さて、それからDKにもどってグラスを片手に「タイミングが良かった、ねっ」「ねっ」と、テーブルを観ると、「死ね」の上のメモ用紙が、動いていてただの「ね」になっている。なるほど、「ね」だ。まあ、こういうこともあります。

2012年2月21日 (火)

バン・アレン・タイ day

バン・アレン(Van Allen radiation)帯というのは、地球の磁場にとらえられた、陽子、電子からなる放射線帯で、帯状に、地球を取り巻いている。磁場であるから極があり、北極と南極がそれに該る。私は何故、それが記念日となり、チョコレートが女性から男性に手渡されるのか、中学生だか高校生だかの頃、さっぱりワカラナイでいた。後々、それはValentine Dayのこととの勘違いだと知って、なるほどと思ったが、それでもチョコレートのことはよく知らない。ただ、私も売れっ子の頃(だいぶ若い頃だが)は、あちこちの女性からチョコレートを多く頂いた。ただし、私はチョコレートは苦手で、1年後、みんな袋の中で白い粉をふいていた。
「惜しみなく愛は奪う」とは有島武郎の評論のタイトルだが、私はこれをもじって「惜しみなく演劇は奪う」というエッセーを書いたこともある。ひとは愛するものに奪われるのだ。とはいえ、「愛する」ということがどういうことなのか、さっぱりワカラナイでいる私は、野上弥生子がいったらしい、愛と憎しみは同じもので、憎しみを持ったとき、初めてひとはそれを愛していたのだと知るのだというコトバには、なるほどそうなのかと思う。そういえば、太宰治も『津軽』でたしか、故郷、汝を愛し汝を憎む、てなことを書いてたなあ。
本日バレンタインデー、私は一昨日あたりからちょっと生活習慣を変えて、一日二回の自炊を一回にした。自炊することは何も辛いことではナイのだが、それを寒い台所で独り食うのがツマラナイ(寂しいというのではナイ)から、朝食は、毎朝インスタント・コーヒー一杯にしていたのを、11時に近所の大型マーケットまで出かけ、そこのパン屋でパンを買い、ミスドでコーヒーを求め、food terraceとやらの、社員食堂のような場所で、これを食す。そうして、ああ、いっぱいのさまざまな同じような生活がいろいろあるなあと、そこでラーメンやら丼やらを食す人々を眺める(というか、観察する)のだ。
家族連れ、小さな子供をカートに乗せて妻が先に歩き、その後を夫が歩いている場合、たいていの夫は「失敗したなあ」という顔つきをしている。逆に夫が先を歩いて、その後を子供を連れた女性が歩いている場合、「なんだか面倒くせえ」という表情になる。二人が並んで歩いている場合、やはり幸せそうだ。結婚して数年、子供ナシ、テーブルを挟んで一言も口をきかないでいる夫婦。平日だ。昼食を家ではつくるのが面倒なんだろう。倦怠期というものなのかなと推測していると、ベルが鳴って、二人注文した品物を取りに行く。どちらもラーメンに小さな五目飯のついたランチ。もどって席に着くと、妻のほうが、やはり黙って、自分のラーメンの鉢からチャーシューを箸で摘んで、夫の鉢に入れる。それからふたこと三言コトバを交わす。いいじゃないか、それで。中年の女性が二人、ドーナツを食しながら、かなりの大音声で喋っている。内緒にしといてよぉっ、といってるが、フロア全体に聞こえているんだから。八十は過ぎている老夫婦、添い遂げるということは、淡々として何気なく、力みなく、諦念を伴うが、しかし何も余計なものがナイ。女房は留守らしい。父親が幼子を専用の椅子に座らせて、こっちもラーメンランチだ。出来ましたのベルが鳴る。父親が立ち上がると幼子は心配そうな顔になる。ゴハン取りに行って来るよ、とひとこと。父親は、遠く離れたところから、幼子に笑顔をみせて、ここにいるからとアピールする。トレイに乗せたラーメンとご飯と子供用の分け茶碗を持ってもどって来る。おいしそーと幼子がいう。12時を知らせる鐘が鳴り、「・・・正午をお報せします」とアナウンスが入る。私は席を立つ。愛、それを私なりに端的にいいなおせば「お世話」ということになる。

2012年2月20日 (月)

如是想解・15

35 現実と虚構
『恋愛的演劇論』で、進めてきたことをまとめてみる。
・「現実」というものを二つのカテゴリー(概念)に分けた。「現実という概念(category)は、「誰々にとって」という条件なり前提を含む」また「それが先験的であるのか、結果的事象であるのか」というとき、の現実は「誰にとっても」ということがいえる。
・現実というものはメタファー(比喩・譬・metaphor)でもフィクション(虚構・fiction)でもナイ。
・現実を「語ること」という営為がすでに演劇だ。何故ならコトバというものは、すべてメタファーを含んでいると考えてイイからだ。その個人の心的表出が言語(書き言葉にせよ、音声にせよ)という表現に置き換えられるとき、そこには、必ずメタファー(比喩・譬)がある。
・「語る側、書く側」が語ったもの、書いたものは「語る側、書く側」に対して逆に変容を強いることはナイのだろうか。-これは、ある-。自分が自分に向けたコトバによって自分は虚構化される。このときの虚構化というのはナニなのかといえば、現実の「私」はたしかに存在するのだが、それに対して、変容した自分もいるのだ。これを「二重化」ということにする。それは短歌の「コップ」が、現実のコップでもあるが、虚構においてmetaphorを持った「コップ」になっているのと同じことだ。この「二重化」は「コトバ」の持つ、一つの宿命のように思われる。
・「もの」は、「語る側、書く側」の心的表出に忠実に、語られ、書かれているのだろうか。
・~きみがいま飲みのこしたる水割りのコップみつめる恋の終わりは~のように、(短歌などの)虚構のうえで、表現されたコップは、すでに現実のものではナイ。作者(の心象とコップという対象)による「関係と了解」よって、変容されたmetaphorであり、fictionだ。
・「恋」も「愛」も、「コトバ」のうえからだけ考えてみれば、それはそれ自体がすでにfictionであり、metaphorだということは明白だし、「二重化」された意味での現実性(reality)を同時に含んでいる。このとき、「二重化」された恋や愛は(その「コトバ」は)現実の方向にも向かうことが出来るし、虚構の方向へ向かうことも可能だ。これを相対性理論でいう「等価原理」として扱っていい。
・「高いビル」というコトバに数多の表現を意味づけて関係させてみれば、メタファーには「現実」を越える「力」があると考えられる。これは、そのまま「虚構」にはある意味で「現実」を越える「力」があるということを示唆しているのではないか。
・「コトバの力」はとりわけ「虚構」において強く発動する。何故なら「現実」はメタファーではナイからだ。メタファーは「現実」を「虚構化」するときに、初めて現れる。

これは、『続・恋愛的演劇論』へと移行させるつもりだ。もちろんあれから、如是想解13・14などのようなことをぐだぐだと考え(ともかくも、銭にもならぬことばかり考えているのだが)、上記のまとめの反省点も含め、14で記したように、この作業は続行していく。いまのところ、なんとなく近似値辺りをグルグル回っている感触だけは持っている。

2012年2月19日 (日)

如是想解・14

34 机
意識のあり方のつづきとして、具体的な例を述べる。「机」がある。これを観るという営為を順番にいうと、「観ている」→「そこにあるものを」→「そこに机がある」。意識の流れは、そういうふうになる。ここでは、机を観ているのは「私」なのだが、ただ、ぼんやりと、漠然と、あるいは忘我して、観ているということにすると、「私」という存在は単なる視線となって、希薄になる。しかし、ひとは、「私」というものも対象にしてしまう。「観ている」→「そこにあるものを」→「そこに私がいる」。これが、「即自的」というものだ。ここで、問題が生じる。何が「私」を観ているのか。それは「私」に決まっている。そうすると、これは無限の循環(合わせ鏡のような状態)に陥ってしまう。つまりこうだ。「私」が「私」を観ている、ということを意識する「私」が存在する。ヘーゲルは、これを「運動」という概念で解消した。しかし、早世した哲学者池田晶子は、終生この「私」とは何かにこだわった。私にはそんな難しいことはワカラナイ。考え出したらワカラナイ、きりのナイことなど五万とあるので、ここは考えない。ただ、33におけるヘーゲルの命題「意識は或るものを己れから区別すると同時にこれに関係しもする」については、異論がある。(注:反論ではナイ)この命題のとおりに「現実」と「虚構」というものを考えてみる。私という意識は「現実」と「虚構」という対象を「区別」しているが、同時に両者と「関係」している、という論理は、一種の錯覚、錯誤だと考えている。
ヘーゲルの意識の定義でいくと、「現実」も「虚構」も、「私の意識しているもの」として存在する。それには問題はナイ。しかし、私たちは、「現実」「虚構」と、どういうふうな「関係」をもっているのだろうか。「これは現実だ」と意識する。「これは虚構だ」と意識する。違ったいい方でいえば、意識は「これは現実だと認識する」「これは虚構だと認識する」。そこで、机だ。机というのは「現実」か、「虚構」か。そりゃ、現実でしょう、だって、叩けばコンコン、コツコツいうよ。と、ここに半畳入れたいのだ。ヘーゲルの命題を逆にたどれば、机自体の対象(現実)は意識の中にはナイ。それは意識が机だと認識した対象としての机だ。では、意識は机をどう認識したのか。机だと他のものから「区別」したから机が在るということになる。「区別」するということは「判断」を下すことだ。この「判断」(の規準)はどこからやってくるのだろうか。それをヘーゲルでいえば、「関係しているから」ということになるが、では、どう関係しているのかと、なおも問い詰める。もし、この「関係」の仕方が個々さまざまなら、机は、さまざまな「私」にとっての、その中の「私」に対して机でなければならない。確かに机は現実に在る。ただその存在はさまざまだ。ここに「虚構」というものが生じる原点があるような気がする。これについては、以前、ブログで書き綴ってきて、中断しているものだ。いまでも、だいたいの答え方は可能なのだが、私はこの現実と虚構という対象を、鬱病の正体(鬱病とは何か)に答えられるところまで、考えてみたいのだ。何故なら、私の生涯は、鬱病によって成立し、またそれに因って壊されてしまったアンビバレントなものだからだ。もう少し閃きと、時間がかかりそうな気がするが、いけるところまではいってみたい。

如是想解 ・13

33 逃避
網野善彦の歴史観にアジール(避難所)というものがある。ここでは詳しくは書かないが、たとえば劇団というのもそれに該る。避難所であるのだから、文字通り「逃避」する場所ということになる。しかし、ひとは、「逃避」することは本質的に不可能な存在だ。何故なら、この世間から逃避したとして、そのひとは「自らが意識することの世間」から逃避しているのに過ぎないのだから、「自らが意識する世間」というのは、いくら現実世間から逃避してもついてまわるという寸法だ。この「自らが意識する」というのはヘーゲルの『精神現象論』に現れる。ヘーゲルの『精神現象論』はまず「意識」をとりあげる。もちろんカントの『純粋理性批判』もそうだ。ヘーゲルはカントの難問[意識と対象の認識の一致を如何に探求するか]を、いとも簡単に乗り越える。「対象もまた意識の内観に過ぎない」という答えでもって。これについても、ここでは便宜上、詳細を避ける。ただひとつ、ヘーゲルの意識の定義、「意識は或るものを己れから区別すると同時にこれに関係しもする」という命題があればイイ。「或るもの」というのは「対象」のことだ。そこで、これと関係するというのを「対他的」と称し、意識それ自体を「即自的」と称してみる。「関係する」というのは、あくまで「対他的」であるから、その対象も「意識」の中に含まれるということになる。哲学的にはこれで充分だ。つまり、「私」というのは、私と世間とを区別しもするが、それとどうしても関係してしまう。「私」がある限りは。従って、世間から逃避しても、「私」がある限り、世間はその「私」の中に含まれる。初期仏教はこれを知っていた。また、後期仏教の禅宗も、それを知っていた。私を無にすることは不可能だから、出してきた答えが「私にとらわれない」という修行だ。つまり、「逃避」というとき、その「逃避」そのものの中に「逃避すべきもの」が含まれているので、本質的に「逃避」するということは不可能なのだ。もし、逃避出来たとおもっている輩がいるとしたら、それは単に、一時的な「忘却」に過ぎない。

2012年2月17日 (金)

如是想解・12

32 演技のシステム
およそ、ワークショップなどで語られる、また教授される演技のシステムが役に立たないのは、医療システムがさほど役に立たないのと似ている。現行医療システム、そのメディカルには、エビデンス(根拠)のあるものと、不明のものがある。現在、日本での患者数が100万人、年間自殺者が3万人をこえる、鬱病の治療も、エビデンスメディカルの確立されていない部類だ。とある著名な外国の精神科医は、世界に7千万人存在するという、WHOの鬱病患者数と、その治療について、「依然として、私たちは、いったい何を治療しているのか、ワカラナイところに追い込まれている」と言明した。
演技システムの場合もこれと同様と考えてマチガイない。医療がそうであるように、たとえば、最も簡単な疾病である感冒を治療する場合、患者万人に同じ処方、治療を施す。鼻水には抗ヒスタミン、咳にはジヒドロコデイン、メチルエフェドリン。これが漢方薬になっても、その主成分は同じだ。たいていの者は、これで治まりがつくが、感染症的なものになると、解熱鎮痛剤、抗生剤が用いられる。しかし、人類というものは、(前提として)共通して同じ肉体を持っているが、個々人の体質はみな違う。そこで、医療は万人共通の肉体と個々人の体質を同時に治療しなければならないという、矛盾に辿り着く。演技のシステムもまったく同じことだ。人間はヒトのカタチをした自然である、という前提のもとに、システムは創られるが、その自然は個々によってみな違う。違ってアタリマエなのだ。それぞれチガウものを総称して、私たちはこれを人類という概念でくくっているからだ。そのチガイはたしかに両棲類とはチガウ、という程度のもので、おおよそ、そのシステムのために、あるモデルというものが必ず設定される。つまり、エビデンスとなっているものは、そのシステムを貫徹すれば、演技をマスター出来るという、ひとつ(一人)のモデルでしかない。スタニスラフスキー・システムについて、唐十郎さんは「なんでも素人を名優にする方法だそうな」とアイロニカルに語っている。スタニスラフスキー・システムというのも、これほど奇妙なモノもナイ。どの俳優も口を揃えて「役には立たなかった」と明言しているのに、いまなお、そのもの、あるいは、亜流、あるいは、我こそが本流というカタチで生き残っているのだから。つまり、我こそが本流のいいぶんは、お察しのようにこうだ。間違って学んでしまうから、役に立たないんです。たしかに、間違った治療をすると、病人は治らない。しかし、正しい治療をしていても治らない病者は大勢いる。治療をしなければ、殆どの病人は治らないのは事実だが、ここだけは演劇と違って、演技システムなど学ばなくとも、優れた演技が出来る者はいる。というより、その数のほうが圧倒的に多いし、名子役などといわれている年端もいかぬ少女は、どこで、演技を学んだのか。と、学ばなければ、演技というものは出来ないものなのか。もし、そうであるならば、どういう学び方があるのか。演技システムなどというものは何一つ信用していない者にとって、つまり私のことだが、ここは、文字通り「腰を据えて」考えるべきだ。

2012年2月10日 (金)

観客の審査

明日から東海支部の恒例『劇王』が二日間にわたって、長久手文化の家で開催される。今年で9回目になるこの催しで、いつも私がオモシロク思っているのは、観客の票だ。ゲスト審査員の票はそれぞれの持ち数がずいぶんと多いのだが、観客数から割り出されるので、ほぼ半々の勢力図を描くと思ってイイ。票は評だ。審査員の票の総数を足しても、観客票が多くて、作品が上位にいくこともしばしばある。もちろんその逆もある。さて、ゲスト審査員が、それぞれの作品に対して講評を述べるとき、このときは、観客がゲスト審査員を審査するというベクトルをとる。観客にしてみれば、自らが投じた票の作品を、審査員が如何に説得力をもって説得してくれるのか、を、期待している。というよりも、きびしくいえば審査しているのだ。観客は個であると同時に、ある共同性を持っている。観客は、自分と自分(たち)の票=評の何処が審査員とチガウのかを、いってみれば大衆として観ているのだ。視線をゲスト審査員からのほうから向きかえれば、ゲスト審査員は大衆を相手にしていることになる。つまり、ゲスト審査員の審査の声は、観客という大衆に向かってとどいていかねばならない。と、こんなこというと、ナニいってんだ。審査は審査、審査員の審査は審査員の審査で、観客がどうの大衆がどうのなど関係ナイ、というゲスト審査員の反駁が聞かれそうだが、おそらくゲスト審査員が最も神経を尖らせているのは、劇場(会場)の大衆に対する自らの位置づけだ。NHKの紅白歌合戦の勝敗など、手練手管の演出にかかれば、如何様にも出来る。もとより、囲碁、将棋の名人戦ではナイのだから。
ゲスト審査員もプロなら、観客も観客というプロと考えてイイ。「なんだか、難しいことをいうてらしたが、芝居なんて、そんなに難しいもんでなかろ」という観客の声は、暗黙のうちに、いつも劇場を支配しているし、また、逆に「芝居というのは、学問や教養がナイと出来んもんだからな」も、そうだ。「わたくしなんか、東京の芝居しか観ないざますから。やっぱり、テネシー・ウイリアムズの『欲望』の電車がどうのとかを観ると、テネシーはケンタッキーとは違うのがよくワカルわよねえ」「日本の芝居は貧相ですもの。せめて稲川だっけ、(蜷川と間違えている)とかだとねえ」。
大衆というものは、自分が乗っている自動車の価値と、自分の価値とを同等のものとして勘定するものだ。「こんなの私のワーゲンに比べれば、ダイハツの軽みたいなもんじゃナイ」という論理だ。
ゲスト審査員は、あくまでインテリか、それとも、「ヴ・ナロード」か。
切なる観客の願い。せめて「私がブロードウェイで観た・・・」などという洋行帰りの口ぶりだけはご勘弁。(接待係にしては、フザケ過ぎたようで、これもご容赦、ご許容、深き懐へ)

多情仏心

今朝、電子体温計、耳式も舌下式も室温が低すぎて機能しない。ひでえな、とは思いつつ、南スーダンでは、数百万人規模の飢餓のおそれと、ネットでみて、そういや、同じアフリカのどこそこでは、30秒に一人の割合で子供がマラリアで死んでいくと、聞いたな。まだマシ。頭重くややふらつくが、買い出しに行かねばと、冷蔵庫をみて、あれとこれとナニだなと、確認。近所の大手スーパーに自転車を走らせる。寒い。とはいえ、部屋の中でも息が白いんだから大差ナシ。特売で、小ぶりのチンゲンサイ98円を買い、備蓄用にレトルトのカレーを買う。他に何種類か買って、けっきょくピーマンを買い忘れるが、明日、明後日は外になるから、まあこれでヨシとして、さて、レジ。1番から10番までのレジで、お気に入りの女性を捜す。年齢は五十前後。眼鏡。髪を後ろにくくり、髪の先は背中まで伸びている。『長い髪の少女』という歌があったな、高校時代。おそらくは、彼女は女子高生の頃は、こんなだったろう、あんなだたっろう、と、ノスタルジックなときめき。これ、片恋。「想さんは、すぐに女のひとを好きになるでしょう」と、とある女性からみぬかれるように指摘されたことがあったが、多情仏心というコトバは、よくぞこの世にあるものだ。その女性をみつけ、そのレジに。ずっとみつめる。ナンでいつもこういうタイプに気が向くのか。この女性は何故、レジなどやっているのか。家計苦しい。子供の学費の足し。亭主失業。さまざまな空想をして、勘定すんで、カート押しながらも、その女性の背中をみつめる。双方思い合うは辛いだけ。片恋はこちらの空想まかせ。還暦を間近にしようとも、ときめきは16歳のときと変わらず。笑わば笑え。このココロ失くして、ものは書けナイ。性欲というのとはまたチガウ。ほのかな、思春期的恋ゴコロ未だ我に在り。ホロビゆく世界もなんのその。若く頑強ならば、飢餓の地に飛んで井戸でも掘ろうが、その地にしてもそう単純ではあるまい。井戸に水が出れば、水の取り合いが起こるかも知れない。井戸を力によって独占するものもあるかも知れない。
ただ、ひとつの自慢。フィリピンの貧村の8歳の女の子、毎月5000円援助して16歳まで。その折々の写真、鞄に入れていること。当初祖母が書き、送られてきた手紙、その娘が自身で書き送れるようになったこと。演劇で成したことなど、何の自慢にもならない。しかし、演劇は、生活からはじまらねば、みんなウソ。

2012年2月 9日 (木)

げびげび

今朝方のレム睡眠で、子供の夢をみた。むかし飼っていた猫が私の胸にひょいと飛び乗ると、それは赤ん坊になった。私はそういうふうに、まだ二十歳のとき、赤ん坊を抱いたことがある。その子は私のほうをみないで、遠くを心配そうな目でみていた。わかるのだ。赤ん坊でも、親に愛情がナイということくらいは。以来、子供は諦めたのだが、五十も半ばを過ぎて、ふと子供が欲しくなった。それが私の双極性の躁鬱病の躁病期であったからなのかどうか、よくワカラナイが、1年足らずで子供のことは、もうイイと思うようになった。相手の女性にすればいい迷惑だ。すでに二度目の離婚をして(離婚された女性に対しても大迷惑だ)、その女性と、比叡山に一泊したとき、途中に「ザリガニ公園」というのがあって、それをみたその女性が「次はここに子供を連れてきて、一緒に遊びましょう」と嬉しそうにいった。それを聞いて私は頭が変になった気がした。ザリガニ遊び。子供と。そんな私を想像すると、もう途轍もなくイヤになった。その女性と別れた理由はそれが原因ではナイのだが、いやもう、懲りた。女性の表と裏のチガイに辟易した。それが何度目かの辟易なのに、まったくひとは恋愛というものの学習能力に欠ける。太宰治は『チャンス』という作品でこう書く。「片恋というものこそ常に恋の最高の姿である」「恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である」
と、太宰原作の小説から、二曲、戯曲を書いたら、こんなふうに同化してしまうんだからなあ。チャンスに乗ぜずして、こちとらの仕事はあがったりだ。私は塾生にも、「才能も努力もアテにはならない。必要なのは、巡ってくるチャンスに必ずヒットが打てるようにしておくことだ」と教えている。それが受注自営の労働というものだ。それは、財政が苦しいから税金を上げるという、子供でも出来そうな愚かな政策しか知らない政治家より、うんと清廉だ。大阪(府だか市だか忘れたが)では、文化予算がバッサリやられたそうだ。私が公共ホールの館長をしていたとき、予算より150万円多くを自作のミュージカルで黒字にしたら、次からは150万円分、予算が削られた。アホとしかいいようがナイ。公共経営に民度を導入するとかで、私は館長に任命されたのだが、それもまったく逆だと思う。民度が知りたければ、その公共ホールの小役人が、三カ月ばかりでいいから、民営の業界に働きに出ればいいのだ。てめえの賃金は保証されて、その保証を守るため日夜努力しているだけなのだ、そいつらは。
予算を削る、それが無駄な予算であればイイ。しかし、必要な予算を削って財政云々をいうことは、逆行としかいいようがナイ。近江商人は、目前の銭を掴むということをしない。目前の銭を他人に渡して、他人が儲けたところから銭を頂戴することを方法としている。近江商人の訓に「損して儲けよ」というのがある。銭が欲しいのなら、財政が不足であるのなら、儲ければイイのだ。稼げばいいのだ。稼がずして、予算を削るなどというのは、何の知恵もナイものの愚行だ。このへんのげび方が、私と太宰のチガウところかな。恋愛も、賭博の負けも、酒の上での失敗も、何度やっても懲りないところが、オモシロサなんじゃナイの。よって曰く。「人生すべて、チャンスに乗ずべし」ただし、責任は負わぬ。

近況

12月に風邪をgetして、これが予想以上に長引いて(普通なら四日くらいなのだが、二週間ほどかかった)、1月には鬱病が悪化して、身体的にも症状が現れ、抗鬱剤を倍増して、何とか乗り切ったら、2月また風邪だ。スラムアパートの寒さは堪える。オムロンの耳体温計は、室度がある程度なければエラーが出るのだが、室度が低くて、そうなる。ともかくも小青竜湯と、補中益気湯でしのいでいるが微熱はまだつづいている。ある程度仕事をしては布団に入るという生活だ。こういうときの独り暮らしは、食料の買い出しがキツイ。そのために水や米、インスタントラーメンの類は買い置きしてあるが、どうしても野菜は備蓄出来ないので、買い出しに行く。野菜の高値には驚かされる。外に出るのは、風邪でなくても、それくらいだが、雨の日は、まったく何処にも行けない状態だ。
仕事の関係上、太宰ばかりを読んでいる。何も難しくなく、気取らず、ほんとうのところを、貫くように書かれてある。若い頃はたいていの者は麻疹のように太宰にかぶれるのだが、これを相対化、対象化出来るようにならないと、ほんとのものは書けない。それは宮沢賢治にもまた似たところがある。賢治の手厳しさは「一度芸術は滅びねばならぬ」といわしめたほどだ。(ほんとに滅べばイイ)。太宰治のromanticismと、坂口安吾のsentimentalismが、私の中でほどよくバランスを保っているので、私の場合は、太宰の心情で安吾の文体に表現を託す、というところ。
たしかに、戯曲は売れぬ。私とて、賃仕事になるのは、東京と関西で、名古屋では、そのような仕事はナイ。中日新聞のコラム・エッセーも3月で終了。名古屋での賃仕事は皆無となる。しかし、売れずとも、書いておけ。と、若い劇作家にはいっておこう。ゴッホとて、生前は一枚も絵は売れなかった。自分がゴッホほどの天才かどうかは別にして、書いて書いて、書き貯めておいて損はナイ。私の場合は、アルコール依存のように、書き仕事依存だから、書いていないと不安になるので、売るアテのナイ小説も書いている。書き貯めたものは、財産だと思っていればイイのだ。蓄財だと思っていればイイのだ。
還暦近くなって、命削って、ものを書く。いつ死んでもよろしい。

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