バン・アレン・タイ day
バン・アレン(Van Allen radiation)帯というのは、地球の磁場にとらえられた、陽子、電子からなる放射線帯で、帯状に、地球を取り巻いている。磁場であるから極があり、北極と南極がそれに該る。私は何故、それが記念日となり、チョコレートが女性から男性に手渡されるのか、中学生だか高校生だかの頃、さっぱりワカラナイでいた。後々、それはValentine Dayのこととの勘違いだと知って、なるほどと思ったが、それでもチョコレートのことはよく知らない。ただ、私も売れっ子の頃(だいぶ若い頃だが)は、あちこちの女性からチョコレートを多く頂いた。ただし、私はチョコレートは苦手で、1年後、みんな袋の中で白い粉をふいていた。
「惜しみなく愛は奪う」とは有島武郎の評論のタイトルだが、私はこれをもじって「惜しみなく演劇は奪う」というエッセーを書いたこともある。ひとは愛するものに奪われるのだ。とはいえ、「愛する」ということがどういうことなのか、さっぱりワカラナイでいる私は、野上弥生子がいったらしい、愛と憎しみは同じもので、憎しみを持ったとき、初めてひとはそれを愛していたのだと知るのだというコトバには、なるほどそうなのかと思う。そういえば、太宰治も『津軽』でたしか、故郷、汝を愛し汝を憎む、てなことを書いてたなあ。
本日バレンタインデー、私は一昨日あたりからちょっと生活習慣を変えて、一日二回の自炊を一回にした。自炊することは何も辛いことではナイのだが、それを寒い台所で独り食うのがツマラナイ(寂しいというのではナイ)から、朝食は、毎朝インスタント・コーヒー一杯にしていたのを、11時に近所の大型マーケットまで出かけ、そこのパン屋でパンを買い、ミスドでコーヒーを求め、food terraceとやらの、社員食堂のような場所で、これを食す。そうして、ああ、いっぱいのさまざまな同じような生活がいろいろあるなあと、そこでラーメンやら丼やらを食す人々を眺める(というか、観察する)のだ。
家族連れ、小さな子供をカートに乗せて妻が先に歩き、その後を夫が歩いている場合、たいていの夫は「失敗したなあ」という顔つきをしている。逆に夫が先を歩いて、その後を子供を連れた女性が歩いている場合、「なんだか面倒くせえ」という表情になる。二人が並んで歩いている場合、やはり幸せそうだ。結婚して数年、子供ナシ、テーブルを挟んで一言も口をきかないでいる夫婦。平日だ。昼食を家ではつくるのが面倒なんだろう。倦怠期というものなのかなと推測していると、ベルが鳴って、二人注文した品物を取りに行く。どちらもラーメンに小さな五目飯のついたランチ。もどって席に着くと、妻のほうが、やはり黙って、自分のラーメンの鉢からチャーシューを箸で摘んで、夫の鉢に入れる。それからふたこと三言コトバを交わす。いいじゃないか、それで。中年の女性が二人、ドーナツを食しながら、かなりの大音声で喋っている。内緒にしといてよぉっ、といってるが、フロア全体に聞こえているんだから。八十は過ぎている老夫婦、添い遂げるということは、淡々として何気なく、力みなく、諦念を伴うが、しかし何も余計なものがナイ。女房は留守らしい。父親が幼子を専用の椅子に座らせて、こっちもラーメンランチだ。出来ましたのベルが鳴る。父親が立ち上がると幼子は心配そうな顔になる。ゴハン取りに行って来るよ、とひとこと。父親は、遠く離れたところから、幼子に笑顔をみせて、ここにいるからとアピールする。トレイに乗せたラーメンとご飯と子供用の分け茶碗を持ってもどって来る。おいしそーと幼子がいう。12時を知らせる鐘が鳴り、「・・・正午をお報せします」とアナウンスが入る。私は席を立つ。愛、それを私なりに端的にいいなおせば「お世話」ということになる。
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