ここまで生きたらショウガナイ
伊丹アイ・ホールで、戯曲の塾『想流私塾』を始めて17年になる。この17年という数字は来年には18年になる。アタリマエのことなのだが、この数字は意外に重い数字だ。つまり、阪神・淡路大震災の年から数えてだからだ。だから、奇妙に刻み込まれて忘却することを許されないような気がする。第一期生の中には親戚縁者、知人友人を亡くした者もいたのだ。
この塾の始まる少し前、いまはフリーランサーで、演劇誌『しんげき』の元編集長をしていたOさんから、戯曲の書き方のようなホンを出さないかと打診があった。二つ返事で引き受けたワケではナイ。面倒だったからでもナイ。ハッキリいってしまえば、私は当時、そんな力量は無かったからだ。戯曲というのは才量と感性で書くことが出来る。しかし、書き方には理論が必要だ。そんな理論を私は持ち合わせていなかった。てんでバラバラな「思考」はあったが、何一つ整理された論理はなかった。そこで、これを機会にと、書いてみて、このホンはいまでも重版されているが、演劇のことなどほんとうは何にも知らない私が、まったくの自分流で書いたのが功を奏したとしかいいようがナイ。私はただ、私がどのようにして、戯曲を書いているかを、幾分か一般的に書いただけだ。そのホンの最初に挙げたのは「テーマとストーリーは必要ナイ」であり「才能と努力をアテにしてはイケナイ」だった。
翻って、私塾の最初には、いつもそのことだけは述べる。これは何も逆説をいっているのではナイ。塾生はキョトンとするか、衝撃を受けるが、ともかくも私はそうやって戯曲を書いてきたのだ。さて、戯曲の書き方を教えるというのは、たいてい二時間もあれば終わる。これを一年続行するというのは無理なような気がした。そこで私がやったことは、戯曲を書くスキル(技術)やリテラシー(応用力・活用法)の方法論ではなく、戯曲から遠く離れることだった。演劇を学ばんとするならば、方法は二つある。演劇の中に自分を投入するか、自分の中に演劇を投入するかだ。私は後者を選んできたから、というのも、演劇を学ぶということにおいて、如何に演劇関連の書籍が役に立たないかを身をもって知っていたからだ。もちろん、海外輸入の演劇学問も、殆ど「クソ」だ。
遠いところから戯曲を学ぶ。これはコトバを返していえば、事象、現象、状況の類を如何にして戯曲に転ずるかということだ。私の私塾に対するmottoは、「このように戯曲を書く」のではなく、「私はこのように考えている」ということを述べるだけだ。それを17年続けて来た。この私塾の発案者である元アイ・ホールの演劇producerにいわせると、今日の演劇現状況は「アゴラと想流私塾」だそうだ。輩出してきた新人の劇作家の健闘をいっているのだ。私は平田オリザ氏のような思想教育はやらないが、その代わりに生活教育をやる。どうやって飯を食っていくかという、劇作家の直面する問題だ。劇作家が劇作家を辞する場合、おのれの才覚をもってしてではなく、殆どが経済的事情による。これは、まったく役者と同一のことだ。演劇というものが、たしかに生活を逼迫させることが多いことは事実だとして、趣味にしておけばイイと、私は全く考えない。極端にいえば、趣味で医者はやれない。現在、医師志望の連中も、生活逼迫を余儀なくされていいる。世界の人口が70憶を突破した。このうち、日本人並みに飯が食えているのは10憶。飢餓の中にあるのが10憶。何とかしのいでいるのが50憶ということになる。自らの労働で得た賃金生活といえど、毎晩安ウイスキーを飲む余裕があるこの身において、たとえ、不定収入(月、定収入6万五千円)で、受注営業であろうとも、「ひとは食うだけにあらず」、北朝鮮の軍部における既得権益者のように素知らぬ顔で生きることが出来ないのが、マレーでハリマオと共に在った祖母の血(DNA)と近江商人であった祖父の血の、致し方ない義というヤツだ。まるで投げ場を求めての負け碁のような心情ではあれど、これは因果というしかナイ。
« シス・カンパニー『寿歌』 | トップページ | 一歩千年でもイイじゃないか »
「北村想のポピュリズム」カテゴリの記事
- nostalgic narrative 4 (2024.01.18)
- 途端調風雅⑦(2016.09.12)
- 途端調風雅①(2016.08.02)
- 涙、壊れているけれど⑳(2016.07.14)
- 涙、壊れているけれど⑲(2016.07.12)