過去の轍
釈迦とイエス・キリストの問題意識は同じだったと思う。「何故、生きるということは苦しいのか」「何故、この世界は人間にとって理不尽なのか」。釈迦はその答を、人智によって「克服」しようとした。「解決」ではナイ。釈迦は、もはやこの苦しみは「解決」出来ることの可能なものではナイという「諦念」をまず選択し、ならば「克服」することは出来るかという問いたてをした。従って、釈迦のいった「生きるということは苦しみである」というコトバは、そもそも前提にしか過ぎない。その「苦しみ」を人智で「克服」出来るや否や。釈迦が挑んだのは、そういう闘いだ。それは、釈迦が部族の王子として、当時では最高の教育を受けていた、ひとりのインテリだったからだという出自にも因る。イエス・キリストは釈迦とは正反対の道を選択した。というのも、イエス生誕以前に既に神God(ヤハウェ)は存在したからだ。従って、この神(ヤハウェ)の教示を如何に解釈するかという道程が、イエスの成したことだ。イエスは自らの極刑を予言したとされているが、そんなものは予言でも何でもナイ。当然の帰結として、イエスの眼前にあったものだ。苦しみを「克服」しようとすれば、苦しみを生ずるものを否定せねばならない。釈迦は四苦八苦の中に「愛」をすら含めた。愛すれば苦しむ。当然のことだ。イエスもまた「愛」を否定した。キリスト教は愛の宗教といわれるが、それは神と人間との愛であって、人間の愛をいうのではナイ。神を愛するがごとく、神に愛されるがごとく、人を愛せ。これがキリスト教のいう愛だ。これは、そのままイスラム教に受け継がれる。イスラム者の自爆を、キリスト者はテロといい、イスラム者はジ・ハード(聖戦)という。聖戦ならば、日本も神国という名に於いて、大東亜戦争を戦った。天皇という神に対する愛だ。愛は巨視的にみれば、無辜の民も惨殺する絶対戦争に及び、ヒロシマ・ナガサキをはじめ、無差別爆撃という大量殺戮をも赦した。微視的にみれば、私たちは、いや、少なくとも私自身は、この「愛」というものへの対処がワカラズ、幾人もの女性への信頼を失くした。あのとき「あなたに棄てられたら、どうすればいいの」と、泣きじゃくりながらいったひとは、要するに私に、最後まで「要求」をしただけだ。あのとき「謝罪」という大仰なことでなく「私に悪いところがあったのなら、どうかいって頂戴」と、せめて「懇願」してくれたなら、という後悔はいまでもつきまとう。後悔、「悔恨」、「あのとき、ああしていれば」「あのときこうしなければ」というのは、ひとがひとを愛することへの「罰」だ。そのようなものなら、いくらでも挙げることが出来る。しかし、それらは、私事であり、私事である以上は、ヒトゴト、他人事にしか過ぎない。この「ヒトゴト、他人事」を、まるで、我がことのように読ませたのは、太宰治の文学だけだ。太宰の文学は彼自身のいうように、「デカダンではなく理想主義」であるゆえに、また「ロマンチシズム」なのだ。従って、romanticistは理想主義者であり、理想主義者はromanticistだ。「ロマンとは、物語とは、虚構とは、現実と共存する(或いは相補する)理想のことだ」
よって曰く、過去の轍にこだわるな。新しき道を行け。
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