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2012年1月21日 (土)

一歩千年でもイイじゃないか

「便利な世の中では、真の芸術とそれ以外との区別は出来た方がいい。自分が心の中で手放せないものがはっきりすれば、わりと楽に区別できます」(朝日新聞/2011/03/27・on reading 本を開けば 「吉本隆明さんのインタビュー」より)。これは単純なことをいわれていて、かなり難しいことだ。大げさにいえば、SLOFT/Nは、真の芸術とそれ以外の区別をつけるための企みなのだが、そこに行くまでの、とば口でしかナイ。なぜ私が演劇を手放さないで来たのかを若いひととともに語りたい、というところから始めねば、という、そういう一つの扉の前に立っているということだ。名古屋の演劇なんてものを大局的に語ってもしょうがナイよという、cynicismは、40年前から死屍累々と連なっている。cynicism、いわゆる諦念だ。と同時に、名古屋の演劇云々というけど、北村想は、全国的に成功しちゃってるしさ、シス・カンパニーなんかのメジャーでやってるしさ、小劇場演劇とか、ほんとうはどうでもイイんじゃないの。名古屋で威張りたいだけじゃないの、という、嫉妬ともプライドの変容ともとれる、インフェリオリティーコンプレックスだ。こういうアホは数え上げればキリがナイ。「預言者故郷に迎え入れられず(ヨハネ福音・4-44)」冗談いうんじゃねえ。私は40年の演劇生活で、演劇の表も裏も知り尽くしている。着ぐるみ芝居から、ご当地市民ミュージカル、書けといわれるものは、仕出し弁当のように書いてきた。いまでもそのような注文があれば、いくらでも応じる。売文業だからだ。さらにいうなら、着ぐるみ芝居と、小劇場劇団に書き下ろす作品に優劣を付けたり、手抜きしたりしたことはナイ。(一度だけ、新聞の映画評に、原稿料欲しさに、イイカゲンな記事を書いて、ふつうの者ならスルーするだろうけど、安住女史には、大叱責された。これはいまでも忘れない。肝に銘じるとはこのことだ)。名古屋の演劇を大局的に観る、というのは、名古屋の演劇状況から現在の演劇というものを腑分けしていくような作業だ。いっておくほうがイイと思うので述べておくが、小劇場が抱える問題も、老舗の劇団のかかえる問題も、大きなプロデュース演劇がかかえる問題も、基本的には同一のものだ。つまり、やってる「仕事」は同じだということだ。経済的な差異や、出演者のpublicの度合いという状況的な違いは歴然としているものの、「表現」の本質に関して違いはナイ。これは演劇創作が東京においては「便利」であるということをいっているに過ぎない。しかし、逆の視点をいうなら、便利なものというのは、廃れるのも速いのだ。いい例が、携帯電話だ。半年ごとに新製品が出て、消費者の買い換えによって、使用価値があるにも関わらず、交換価値の低くなったものは市場からも消費者の手からも消えていく。このような商品の市場速度は、東京特有ではナイが、こと演劇などの表現に観点をずらせば、ほんとうは、東京以外において、その速度は「無い」。つまり、表現のquality、そのレベル、等々において、東京が抜きんでている、秀でているというのは、ある東京幻想か、または、まったくの錯誤でしかナイ。それを呼び込むのは、東京の持つ付加価値のsuccess-storyだ。いわゆるAmerican-dreamと同じものだ。そういうものをエポケー(括弧に括る)しておけば、名古屋の演劇からでも、演劇は腑分け出来る。演劇の背負っているものは、演劇そのものの中にしかナイからだ。私たちは、とば口に在る。40年かかって変わらぬものが、そう簡単に変わるワケはナイよと、冷笑する者はすればイイ。私たちは、そういう連中とつきあっている時間はナイ。しかし、「変えていく」時間なら無限にある。演劇は人類進化の過程にあるものだ。その単位が一歩千年でも、歩かなければ進むことは出来ない。

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