如是想解・10
30 試練
キリスト教ではよく「神の試練」というコトバが使われる。なにごとも神の試練。ところで、最初に人間に「試練」を与えたのは神ではなくサタンだ。ご存知のように、エデンの園でイブに、知恵の木の実を食べるように勧めたのが、その試練ということになる。つまりイブは試されたのだから。イブはこれを食し、アダムにも食べるように勧めた。ここでの疑問が、ずっと私につきまとう。サタンのコトバによれば「その木の実を食べれば、神と同様、知恵が授かる」のだが、では、それ以前のアダムとイブというのは、どれほどの能力、頭脳、を持っていたのか。他の動物たちとチガウ、何を以てヒトだったのか。神は述べた。「産めよ増やせよ、地に満ちよ」。これだけじゃ、他の動物と同じだ。聖書の創世記によれば、神は人間を創造する際、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」という計画で人間を創った。この「われわれ」というコトバも多く論議されている。神は唯一なのだから複数は変だというのだ。しかし、いまのところ、それは、神と天使のことだという解釈で落ち着いている。さらに追究。もし、アダムとイブが、そういう計画で創られたのなら、蛇として現れたサタンも、地をはう蛇として支配出来たはずだ。つまり、サタンは蛇などに化身する必要などまったくナイ、というより、そうしては支配されてしまうことになる。何れにせよ、知恵の木の実を食べる以前のアダムとイブは痴呆であったワケではナイのだから、「われわれに似るように」程度の知恵はあったワケなのに、何故、サタンの試練にひっかかったのか。これでは、「われわれに」似せた、神と天使がサタンの試練に引っ掛かったとしか、論理のうえではいえなくなる。もとより「われわれに似せた」はずのアダムとイブにさらに「神と同じ知恵」というのは矛盾としかいいようがナイ。「キャラメル」と同じ「キャラメル」をあげよう。といっているのに等しいからだ。
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