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2012年1月15日 (日)

如是想解・11

31 サタンの曰く
サタンというのは、Satan(悪魔)という意味でしか辞書にはナイが、この総大将がルシフェルということになっている。なぜ、大将かというと、元々の身分が権天使(或いは熾天使という説もある)であったものが、神に反逆して、堕天使の刻印とともにこの世界、つまり人間世界に追放されたからだ。このときの、神の側の総大将がミカエルで、位は大天使だ。天使は九隊に分かれていて、階級がある。大位、中位、下位の三級、一つの軍が三隊で構成されているから、これを天軍三級九隊と称する。熾天使は、最上位の位だが、権天使は下位の一番上、大天使はその下になるので、ミカエルよりも、ルシフェルのほうが天使の位としては上位だった。単に天使というのは、三級の最も下の階級をいう。何のためにそんな階級かあるのか、私は知らん。要するに神によるヒエラルキーらしい。ちなみにミカエルというのは、ヘブライ語では「ミ・カ・エル:神のごとく振舞う者は誰ぞ」というコトバらしい。ルシフェルにしても、もともとは「光をもたらす者」「暁の明星」という意味だった。
そのルシフェル(どうやら、私と同行二人らしいのだが)曰く、30の「試練」に触れて「バカだね、相変わらず。知恵というのは、[疑う]と同義なんだぜ。疑うことがあってこそ、人類の科学も哲学も文学も開花、進歩したんだからな。それに、イブは蛇というものを観たことはなかったんだ。私が蛇に化身するまで、エデンには蛇なんかいなかったからな。そこにいないものに化身したのさ。何の疑いもなく行動してみろよ、それがすべての命取りになることは、お前がイチバンよく知ってることじゃナイか。マルキ・ド・サドを読んでいながら、お前もアマチャンだねえ。正義も無垢も信頼も無力の旗印さ」嘲笑うルシフェルの声を聞きつつ私が取り出して読んだのは聖書でも経典でもナイ。太宰治の『もの思う葦』だ。-感謝の文学-(前略して末尾)・・・これだけは、いい得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。・・・
もちろん、「小説」とういう箇所を「演劇」に置き換えてもイイ。(現時点、鬱症状の極めて強い希死念慮と闘いつつ)。

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