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2012年1月

2012年1月31日 (火)

過去の轍

釈迦とイエス・キリストの問題意識は同じだったと思う。「何故、生きるということは苦しいのか」「何故、この世界は人間にとって理不尽なのか」。釈迦はその答を、人智によって「克服」しようとした。「解決」ではナイ。釈迦は、もはやこの苦しみは「解決」出来ることの可能なものではナイという「諦念」をまず選択し、ならば「克服」することは出来るかという問いたてをした。従って、釈迦のいった「生きるということは苦しみである」というコトバは、そもそも前提にしか過ぎない。その「苦しみ」を人智で「克服」出来るや否や。釈迦が挑んだのは、そういう闘いだ。それは、釈迦が部族の王子として、当時では最高の教育を受けていた、ひとりのインテリだったからだという出自にも因る。イエス・キリストは釈迦とは正反対の道を選択した。というのも、イエス生誕以前に既に神God(ヤハウェ)は存在したからだ。従って、この神(ヤハウェ)の教示を如何に解釈するかという道程が、イエスの成したことだ。イエスは自らの極刑を予言したとされているが、そんなものは予言でも何でもナイ。当然の帰結として、イエスの眼前にあったものだ。苦しみを「克服」しようとすれば、苦しみを生ずるものを否定せねばならない。釈迦は四苦八苦の中に「愛」をすら含めた。愛すれば苦しむ。当然のことだ。イエスもまた「愛」を否定した。キリスト教は愛の宗教といわれるが、それは神と人間との愛であって、人間の愛をいうのではナイ。神を愛するがごとく、神に愛されるがごとく、人を愛せ。これがキリスト教のいう愛だ。これは、そのままイスラム教に受け継がれる。イスラム者の自爆を、キリスト者はテロといい、イスラム者はジ・ハード(聖戦)という。聖戦ならば、日本も神国という名に於いて、大東亜戦争を戦った。天皇という神に対する愛だ。愛は巨視的にみれば、無辜の民も惨殺する絶対戦争に及び、ヒロシマ・ナガサキをはじめ、無差別爆撃という大量殺戮をも赦した。微視的にみれば、私たちは、いや、少なくとも私自身は、この「愛」というものへの対処がワカラズ、幾人もの女性への信頼を失くした。あのとき「あなたに棄てられたら、どうすればいいの」と、泣きじゃくりながらいったひとは、要するに私に、最後まで「要求」をしただけだ。あのとき「謝罪」という大仰なことでなく「私に悪いところがあったのなら、どうかいって頂戴」と、せめて「懇願」してくれたなら、という後悔はいまでもつきまとう。後悔、「悔恨」、「あのとき、ああしていれば」「あのときこうしなければ」というのは、ひとがひとを愛することへの「罰」だ。そのようなものなら、いくらでも挙げることが出来る。しかし、それらは、私事であり、私事である以上は、ヒトゴト、他人事にしか過ぎない。この「ヒトゴト、他人事」を、まるで、我がことのように読ませたのは、太宰治の文学だけだ。太宰の文学は彼自身のいうように、「デカダンではなく理想主義」であるゆえに、また「ロマンチシズム」なのだ。従って、romanticistは理想主義者であり、理想主義者はromanticistだ。「ロマンとは、物語とは、虚構とは、現実と共存する(或いは相補する)理想のことだ」
よって曰く、過去の轍にこだわるな。新しき道を行け。

2012年1月28日 (土)

鬱病者の独語

ひとには、それぞれ固有の倫理というものがある。それを同様に他人に求めてはイケナイ。ましてや他人に押しつけても、イケナイ。しかし、もっともイケナイのは、他人のそれを壊してしまうことだ。
ひとを信ずるには勇気がいる。もっとも強い勇気がいる。しかし、それは、アトから、おれも大バカもんだなぁ、とわらってしまえるくらいの勇気だ。
死にたがっているのはワカッテいる。だからこそ、生きようとして、こんなに、一所懸命なんじゃないか。

2012年1月25日 (水)

開店休業中

主筆、鬱病、悪化につき、タイトルのごとく、です。読者に陳謝。

2012年1月21日 (土)

一歩千年でもイイじゃないか

「便利な世の中では、真の芸術とそれ以外との区別は出来た方がいい。自分が心の中で手放せないものがはっきりすれば、わりと楽に区別できます」(朝日新聞/2011/03/27・on reading 本を開けば 「吉本隆明さんのインタビュー」より)。これは単純なことをいわれていて、かなり難しいことだ。大げさにいえば、SLOFT/Nは、真の芸術とそれ以外の区別をつけるための企みなのだが、そこに行くまでの、とば口でしかナイ。なぜ私が演劇を手放さないで来たのかを若いひととともに語りたい、というところから始めねば、という、そういう一つの扉の前に立っているということだ。名古屋の演劇なんてものを大局的に語ってもしょうがナイよという、cynicismは、40年前から死屍累々と連なっている。cynicism、いわゆる諦念だ。と同時に、名古屋の演劇云々というけど、北村想は、全国的に成功しちゃってるしさ、シス・カンパニーなんかのメジャーでやってるしさ、小劇場演劇とか、ほんとうはどうでもイイんじゃないの。名古屋で威張りたいだけじゃないの、という、嫉妬ともプライドの変容ともとれる、インフェリオリティーコンプレックスだ。こういうアホは数え上げればキリがナイ。「預言者故郷に迎え入れられず(ヨハネ福音・4-44)」冗談いうんじゃねえ。私は40年の演劇生活で、演劇の表も裏も知り尽くしている。着ぐるみ芝居から、ご当地市民ミュージカル、書けといわれるものは、仕出し弁当のように書いてきた。いまでもそのような注文があれば、いくらでも応じる。売文業だからだ。さらにいうなら、着ぐるみ芝居と、小劇場劇団に書き下ろす作品に優劣を付けたり、手抜きしたりしたことはナイ。(一度だけ、新聞の映画評に、原稿料欲しさに、イイカゲンな記事を書いて、ふつうの者ならスルーするだろうけど、安住女史には、大叱責された。これはいまでも忘れない。肝に銘じるとはこのことだ)。名古屋の演劇を大局的に観る、というのは、名古屋の演劇状況から現在の演劇というものを腑分けしていくような作業だ。いっておくほうがイイと思うので述べておくが、小劇場が抱える問題も、老舗の劇団のかかえる問題も、大きなプロデュース演劇がかかえる問題も、基本的には同一のものだ。つまり、やってる「仕事」は同じだということだ。経済的な差異や、出演者のpublicの度合いという状況的な違いは歴然としているものの、「表現」の本質に関して違いはナイ。これは演劇創作が東京においては「便利」であるということをいっているに過ぎない。しかし、逆の視点をいうなら、便利なものというのは、廃れるのも速いのだ。いい例が、携帯電話だ。半年ごとに新製品が出て、消費者の買い換えによって、使用価値があるにも関わらず、交換価値の低くなったものは市場からも消費者の手からも消えていく。このような商品の市場速度は、東京特有ではナイが、こと演劇などの表現に観点をずらせば、ほんとうは、東京以外において、その速度は「無い」。つまり、表現のquality、そのレベル、等々において、東京が抜きんでている、秀でているというのは、ある東京幻想か、または、まったくの錯誤でしかナイ。それを呼び込むのは、東京の持つ付加価値のsuccess-storyだ。いわゆるAmerican-dreamと同じものだ。そういうものをエポケー(括弧に括る)しておけば、名古屋の演劇からでも、演劇は腑分け出来る。演劇の背負っているものは、演劇そのものの中にしかナイからだ。私たちは、とば口に在る。40年かかって変わらぬものが、そう簡単に変わるワケはナイよと、冷笑する者はすればイイ。私たちは、そういう連中とつきあっている時間はナイ。しかし、「変えていく」時間なら無限にある。演劇は人類進化の過程にあるものだ。その単位が一歩千年でも、歩かなければ進むことは出来ない。

2012年1月20日 (金)

ここまで生きたらショウガナイ

伊丹アイ・ホールで、戯曲の塾『想流私塾』を始めて17年になる。この17年という数字は来年には18年になる。アタリマエのことなのだが、この数字は意外に重い数字だ。つまり、阪神・淡路大震災の年から数えてだからだ。だから、奇妙に刻み込まれて忘却することを許されないような気がする。第一期生の中には親戚縁者、知人友人を亡くした者もいたのだ。
この塾の始まる少し前、いまはフリーランサーで、演劇誌『しんげき』の元編集長をしていたOさんから、戯曲の書き方のようなホンを出さないかと打診があった。二つ返事で引き受けたワケではナイ。面倒だったからでもナイ。ハッキリいってしまえば、私は当時、そんな力量は無かったからだ。戯曲というのは才量と感性で書くことが出来る。しかし、書き方には理論が必要だ。そんな理論を私は持ち合わせていなかった。てんでバラバラな「思考」はあったが、何一つ整理された論理はなかった。そこで、これを機会にと、書いてみて、このホンはいまでも重版されているが、演劇のことなどほんとうは何にも知らない私が、まったくの自分流で書いたのが功を奏したとしかいいようがナイ。私はただ、私がどのようにして、戯曲を書いているかを、幾分か一般的に書いただけだ。そのホンの最初に挙げたのは「テーマとストーリーは必要ナイ」であり「才能と努力をアテにしてはイケナイ」だった。
翻って、私塾の最初には、いつもそのことだけは述べる。これは何も逆説をいっているのではナイ。塾生はキョトンとするか、衝撃を受けるが、ともかくも私はそうやって戯曲を書いてきたのだ。さて、戯曲の書き方を教えるというのは、たいてい二時間もあれば終わる。これを一年続行するというのは無理なような気がした。そこで私がやったことは、戯曲を書くスキル(技術)やリテラシー(応用力・活用法)の方法論ではなく、戯曲から遠く離れることだった。演劇を学ばんとするならば、方法は二つある。演劇の中に自分を投入するか、自分の中に演劇を投入するかだ。私は後者を選んできたから、というのも、演劇を学ぶということにおいて、如何に演劇関連の書籍が役に立たないかを身をもって知っていたからだ。もちろん、海外輸入の演劇学問も、殆ど「クソ」だ。
遠いところから戯曲を学ぶ。これはコトバを返していえば、事象、現象、状況の類を如何にして戯曲に転ずるかということだ。私の私塾に対するmottoは、「このように戯曲を書く」のではなく、「私はこのように考えている」ということを述べるだけだ。それを17年続けて来た。この私塾の発案者である元アイ・ホールの演劇producerにいわせると、今日の演劇現状況は「アゴラと想流私塾」だそうだ。輩出してきた新人の劇作家の健闘をいっているのだ。私は平田オリザ氏のような思想教育はやらないが、その代わりに生活教育をやる。どうやって飯を食っていくかという、劇作家の直面する問題だ。劇作家が劇作家を辞する場合、おのれの才覚をもってしてではなく、殆どが経済的事情による。これは、まったく役者と同一のことだ。演劇というものが、たしかに生活を逼迫させることが多いことは事実だとして、趣味にしておけばイイと、私は全く考えない。極端にいえば、趣味で医者はやれない。現在、医師志望の連中も、生活逼迫を余儀なくされていいる。世界の人口が70憶を突破した。このうち、日本人並みに飯が食えているのは10憶。飢餓の中にあるのが10憶。何とかしのいでいるのが50憶ということになる。自らの労働で得た賃金生活といえど、毎晩安ウイスキーを飲む余裕があるこの身において、たとえ、不定収入(月、定収入6万五千円)で、受注営業であろうとも、「ひとは食うだけにあらず」、北朝鮮の軍部における既得権益者のように素知らぬ顔で生きることが出来ないのが、マレーでハリマオと共に在った祖母の血(DNA)と近江商人であった祖父の血の、致し方ない義というヤツだ。まるで投げ場を求めての負け碁のような心情ではあれど、これは因果というしかナイ。

2012年1月17日 (火)

シス・カンパニー『寿歌』

今頃(といっても、まだ上演半ばなのだが)書くのは、東京(中日)新聞の『エンタ目』が記事になったから、もう、いろいろ書いてもいいだろうということで書くのだが、初日のことは、すでにその『エンタ目』に書いたから、そこに書き落としたことなどだ。昨日、伊丹の想流私塾をやって、いろいろと情報があったのだが、けっこうチケットは手に入るらしい。もちろん、正規の値段というのではナイようだ。いわゆる転売というもので、2万円なんて値段がついているのもあるかと思えば、運良く当日券で入れたてなのもいる。転売のほうは、意外に競走相手が多くて、値段を下げだしたなんてのもある。ご苦労なこって。
初日の舞台が終わって、カーテンコールは、お約束の二度だけ。そう何度も出て来ないところは取り決めどおりなんだろうが、潔くてイイ。上演時間が80分という短い舞台だったので、第二幕があるのではと、席を立たない観客もあったそうだ。80分はイイ。ウディ・アレン監督の最盛期の映画はたいていそれくらいだったからな。
カーテンコールの戸田恵梨香さんの笑顔が印象的で、それが、芝居のすべてを物語っていた。堤さんは、ほんとうにほっとしたようで、「これでよかったんだ」というふうにみえた。橋本じゅんくんは、「よし、よしっ」という、ともかく、成し遂げた充実が眼光にあって、気分イイね、だ。
初日乾杯は、(私からみると)豪華なオードブルが出たが、私はシャンペン一杯で、もう何も胃に入りそうにナイ。戸田さんは、ずいぶんと痩身だから体力は大丈夫かなと、当方心配していたのだが、缶ビール片手に、どんどん食べている。いやあ、図太い。突然、堤さんが「金杯っ」と叫んで走り出した。競馬の重賞レース結果だ。ともかく初日払拭、明日は新しく、というこれも心理戦なのだ。
大阪の小堀くんと、舞台撮影の谷古宇さん、日経新聞のんんとか女史、堤さんにじゅんくん、それから、演出の千葉さんとともに、新国立のすぐ近所の居酒屋に入る。ここでも、堤さんが、話題を提供しては、盛り上げる。よくもまあ、気配りの出来るひとだなと、飲み屋では殆ど無口な私は感服する。けして難しい話はしない。芸能界の裏話だ。『演劇ブック』では、読者に向けて、演劇知を語っていたのとはまるでチガウ。そういうことは、書くとういう分野では、私もちゃんと使い分けているが、かなわねえナ。小堀くんは上機嫌で「千葉、いいぞ今日は飲めっ」と、一声、千葉さんと堤さんが、待ってたとばかりにお湯割のお代わりをする。肴の注文は、小堀くんがするのだが、その店は初めてなのに、まるで常連のごとく、ささっと親父にmissionして、まるで、その店のお勧めのようなものばかりが出てくる。ここが、酒を嗜む者の達人たる所以だ。
私は、11:00過ぎには退席したが、彼らは3:00まで、別の店で飲っていたそうだ。
捕捉:パンフレットに一文を寄せた、演劇批評家の安住女史は、戸田恵梨香さんのことは、まったくこれが最初の出会いだったのだが、「あの女優、なんていうの、どういうひと、スゴイねえ」というてましたわ。なんという世間知らず。

2012年1月15日 (日)

如是想解・11

31 サタンの曰く
サタンというのは、Satan(悪魔)という意味でしか辞書にはナイが、この総大将がルシフェルということになっている。なぜ、大将かというと、元々の身分が権天使(或いは熾天使という説もある)であったものが、神に反逆して、堕天使の刻印とともにこの世界、つまり人間世界に追放されたからだ。このときの、神の側の総大将がミカエルで、位は大天使だ。天使は九隊に分かれていて、階級がある。大位、中位、下位の三級、一つの軍が三隊で構成されているから、これを天軍三級九隊と称する。熾天使は、最上位の位だが、権天使は下位の一番上、大天使はその下になるので、ミカエルよりも、ルシフェルのほうが天使の位としては上位だった。単に天使というのは、三級の最も下の階級をいう。何のためにそんな階級かあるのか、私は知らん。要するに神によるヒエラルキーらしい。ちなみにミカエルというのは、ヘブライ語では「ミ・カ・エル:神のごとく振舞う者は誰ぞ」というコトバらしい。ルシフェルにしても、もともとは「光をもたらす者」「暁の明星」という意味だった。
そのルシフェル(どうやら、私と同行二人らしいのだが)曰く、30の「試練」に触れて「バカだね、相変わらず。知恵というのは、[疑う]と同義なんだぜ。疑うことがあってこそ、人類の科学も哲学も文学も開花、進歩したんだからな。それに、イブは蛇というものを観たことはなかったんだ。私が蛇に化身するまで、エデンには蛇なんかいなかったからな。そこにいないものに化身したのさ。何の疑いもなく行動してみろよ、それがすべての命取りになることは、お前がイチバンよく知ってることじゃナイか。マルキ・ド・サドを読んでいながら、お前もアマチャンだねえ。正義も無垢も信頼も無力の旗印さ」嘲笑うルシフェルの声を聞きつつ私が取り出して読んだのは聖書でも経典でもナイ。太宰治の『もの思う葦』だ。-感謝の文学-(前略して末尾)・・・これだけは、いい得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。・・・
もちろん、「小説」とういう箇所を「演劇」に置き換えてもイイ。(現時点、鬱症状の極めて強い希死念慮と闘いつつ)。

如是想解・10

30 試練
キリスト教ではよく「神の試練」というコトバが使われる。なにごとも神の試練。ところで、最初に人間に「試練」を与えたのは神ではなくサタンだ。ご存知のように、エデンの園でイブに、知恵の木の実を食べるように勧めたのが、その試練ということになる。つまりイブは試されたのだから。イブはこれを食し、アダムにも食べるように勧めた。ここでの疑問が、ずっと私につきまとう。サタンのコトバによれば「その木の実を食べれば、神と同様、知恵が授かる」のだが、では、それ以前のアダムとイブというのは、どれほどの能力、頭脳、を持っていたのか。他の動物たちとチガウ、何を以てヒトだったのか。神は述べた。「産めよ増やせよ、地に満ちよ」。これだけじゃ、他の動物と同じだ。聖書の創世記によれば、神は人間を創造する際、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」という計画で人間を創った。この「われわれ」というコトバも多く論議されている。神は唯一なのだから複数は変だというのだ。しかし、いまのところ、それは、神と天使のことだという解釈で落ち着いている。さらに追究。もし、アダムとイブが、そういう計画で創られたのなら、蛇として現れたサタンも、地をはう蛇として支配出来たはずだ。つまり、サタンは蛇などに化身する必要などまったくナイ、というより、そうしては支配されてしまうことになる。何れにせよ、知恵の木の実を食べる以前のアダムとイブは痴呆であったワケではナイのだから、「われわれに似るように」程度の知恵はあったワケなのに、何故、サタンの試練にひっかかったのか。これでは、「われわれに」似せた、神と天使がサタンの試練に引っ掛かったとしか、論理のうえではいえなくなる。もとより「われわれに似せた」はずのアダムとイブにさらに「神と同じ知恵」というのは矛盾としかいいようがナイ。「キャラメル」と同じ「キャラメル」をあげよう。といっているのに等しいからだ。

2012年1月12日 (木)

次なる報告

SLOFTは2011年を以て、そのunitを解消した。受け継いでSLOFT/Nの準備が整ったので、報告しておく。SLOFTの解消の理由は、書き出すと一方への不信かつ彼自身のプライベートな部分と重なるので、詳細は書かない。そんなことをいちいちscandalousに知らなくとも、『デザートはあなたと』は、遂行される。また、全力をあげて、当初の目的、理念である、若いひととの演劇の交流と、私の演劇のバトンタッチの営為は続行するつもりだ。それが出来る場でありさへすれば、SLOFTのunit解消はなかったと逆に憶測頂いてよろしいかと思う。僅か二作で終わらせたことを何の後悔もしていないし、残念だとも思っていない。いち早く、次の行動に移れた(一作目終了時からその作業はなされていたのだが)のが幸いだった。私にとっては、創作営為としての、二作における若い人との演劇時間は多くの糧にあふれていた。これはたいへん悦ばしきことだといえる。

2012年1月 7日 (土)

著作権代行事務所変更のお報せ

私(北村想)の著作権申請事務所が、2012年1月から、ナビロフトより小堀純事務所に変更になりました。理由は都合と事情によります。(都合と事情はどこにでもありますから)。著作権申請とは、私の戯曲を上演する場合は無断では行えないということです。必ず、著作権申請をして、許可書の発行をもって、営為して下さい。
戯曲の上演申請問い合わせは先は、小堀 純 事務所・〒541-0051・大阪市中央区備後町2丁目5-8綿業会館内・℡06-6209-0756・ fax06-6222-3811・e-mail kobori@workroom.co.jp です。
申請に必要なものは、申請団体名、団体住所、電話番号、mailアドレス(あれば)、fax番号、代表者、公演数、入場料金、公演日時、公演企画書(公演の目的をお書き下さい)
返信用封筒(ちゃんと相応の切手を貼って下さい。中には封筒だけ送ってくる方もありますので)です。
私の戯曲上演の場合、著作権使用料は、2012年1月から、前売り料金3000円以下の場合、売り上げ総額の5%。前売り料金が3001円以上の場合は、売り上げ総額の8%です。大学の劇研、各種劇団の研究所(研究生)の無料公演、高校演劇、の場合は一律5000円です。売り上げ総額は主催団体の申告によりますので、いくらでも調整(お手盛りで、たとえば千人入場を500人にしたりとか)出来るようになっています。これは一見、不正を認めるかのようにみえますが、演劇主催団体はたいていが台所事情が苦しい(というより貧困)という日本の演劇現状に鑑みた対処だと考えて下さい。
ひとつ特例をいいますと、本年3月公演の加藤健一事務所は『寿歌』と『ザ・シェルター』の二本立て興行ですが、役者諸君が一本分のguaranteeで、二本に出演するということを考慮して、著作権使用料を売り上げ総額の4%としました。(こういうことは特例で、いつもそうとは限りません)
著作権使用料金の支払いの目安は、公演終了後三カ月ですが、主催団体の都合で適宜にもなりますし、ローンでの支払いも可能です。
新作書き下ろしの場合は、要相談です。これは主催団体が、大小さまざまであることに因ります。
以上、ご報告でした。

2012年1月 2日 (月)

年頭所感或いは『ムーミン谷の冬』

トーベ・ヤンソンの小説、ムーミン谷のシリーズの中では、『ムーミン谷の冬』がいっとう好きだ。ストーリーは皆目忘却してしまったが、あるシーンだけには、いまもなお震撼する。「すべてのものが冬眠しているときに、独りだけ目覚めてしまったら・・・」と、たったそれだけのシーン、それだけの(そのような)コトバなのだが、それがどのようなプロットに用いられたのかも記憶にさだかでナイのにしかし、この感覚、「すべてのものが冬眠しているときに自分だけが、目覚めてしまった」というこの感覚は、世界、地球にたった独りで残されてしまった者だけが知る感覚なのではないかという虞れをもって私にやって来る。それは孤独とも違う。寂しさでもナイ。簡単にいうなら「心細さ」なのだが、私はこれと同じ感覚を鬱病という宿痾を患って初めて体感した。医者は誰もが、異常はありませんねという。ひどいのにあたったときは、おまえクスリをやってんじゃないかと、疑われたこともある。家族にも伝えようがナイ。もちろん、ワカッテもらえない。そのときの妻には「あんただけがしんどいんじゃないんだからね」と一蹴されている。なにしろ私自身にさへワカラナイんだから始末に悪い。たしか、そんなときに『ムーミン谷の冬』のその部分を読んで、ああ、これだ、これなんだと、納得したことだけはおぼえている。
大晦日には実家にいたので、受信料を支払っている実家のテレビで母親と弟につきあって『紅白歌合戦』を観たが、三分の一あたりで辟易し、半分あたりで気が滅入ってきた。とにかく震災、なんだって震災、隅から隅まで震災。震災なければ今日はナイという、極めてあざとい演出に舞台関係者として、私は一つ疑問を持った。何故、こうまでして、被災者と、非被災者という分け方を強いなければならないのか。ヒロシマ、ナガサキの被爆者が、犠牲者であるに関わらず、戦後、日本の国民から差別を受けなければならなかったという悲劇の構造とが重なって、心底嫌気がさしてきた。日本に被災地など存在しない。何故なら、日本が被災地なのだから。そうして、現在も震災は続いている。私たちは震災後を生きているのではナイ。「被災地のみなさん」「被災者の方々」などという表現は本来、妥当性を欠く。自らが被災者であり、震災は続いているのだという自覚なくしては、姑息な(その場凌ぎな)ことしか出来ない。まるで日本中が某民放の『愛は地球を救う』を垂れ流しているだけじゃないか。
『ゆく年くる年』からは「明けましておめでとうございます」のコトバが、当然でもあるかのように消えた。「明けまして」というのは、なにはともあれ、「明けた」ことに対する感謝なのだ。夜が続いているのではナイ、ともかくも、新しい年はやって来たということへの畏敬なのだ。初日の出を拝むのは、太陽信仰とは何の関係もナイ。夜が明けたことへの祈りなのだ。それにつづく「おめでとうございます」は「芽出たくありますように」だ。意をもって解せば「なにはともあれまた陽は昇りました。新しい芽が出ることをお祈りいたします」となる。それすら、受信料放送局は「自粛」してしまった。まったくの誤謬としかいいようがナイ。
みんなが冬眠しているときに独りだけ目覚めてしまったら、どんなに心細いだろうと、氷原を観わたして佇むムーミンのように、私は心底、心細くこの年を迎えた。「絆」キズナと、そういうのを「バカの一つ覚え」というのだ。私はそんなものはまるで信じないで生きてきたから、私は私の臆病さと、どうやって対峙していこうかで、精一杯だ。

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