無料ブログはココログ

« 如是想解・7 | トップページ | 映画情報『ヒミズ』(園子温、監督) »

2011年12月21日 (水)

如是想解・8

26 旅芸人或いは『寿歌』
「自由意志」と「自己責任」などというものは、この世界の何処を捜しても無い。哲学史にも登場しない(浅学の私が学んだ範囲においてはだが)。似たような表現ならサルトルにもみられるが、サルトルは正確にいえば、哲学評論家、哲学的知識人だ。(その著作の多くを読んだワケではナイが)どうも彼の哲学とやらは、さまざまな哲学の寄せ集めか、批評の類でしかないように思う。早熟な高校生(または昨今なら大学生)なら影響されるかも知れないけれど、あの程度のことなら私にもいえる。私たちは「自由意志」によって生まれてきたワケではナイ。無神論の立場に立てば、自身の人生について責任などとる必要はナイ。これが、まあ、サルトルのいう即自的存在というものだ。ただし、世界には他人が存在する。よって、他人に対して自分の存在というものを設定しなければならない。人間は本質ではなく実存的存在であるのだから、自身を変えていかねばならない。これを意志というのなら、それが、サルトルのいう対自的存在、つまり、アンガージュマンというものだ。なんで早熟な高校生なら、かというと、現に私は高校生のとき、サルトルとカミュのいずれがヨキカナと、考えたりしたからだ。カミュを無神論者ではなく非神論者と呼称したサルトル、このあたりは認めてヨシとして、私はどうしてもカミュに傾倒した。
想子曰く、誰が好きこのんで芝居なんざ初めるものか。誰が「好きだからこそやれるのよねえ」と、世間のものに揶揄されながら、恥じ入る思いをして、そんな営為を続けられるものか。しかし、芝居、演劇というものに魅入られたなら、こいつと徹底的に闘うしかナイのだ。そんなものは自由意志でも、自己責任でもナイ。そういう道徳的、政治的、法的な範疇-概念(category)、に「芝居」やら「演劇」やらは含まれない。自由とか、意志とか、自己とか、責任とかは、「芝居-演劇」の辞書には無い。そこでは自由は「因」に、意志は「果」に置き換えられて「因果」と呼ばれる。自己は「不完全」、責任はせいぜい「応報」だ。しょうがないではないか。「芝居-演劇」という営為は堕天使の反抗なのだから。ところが、私たちはひとのこだ。~ひとのこは、ひとのこゆえに、ひとなりき~「この哀しさがワカルか」。ルシフェルにはワカッテいた。しかしルシフェルは天使ゆえに無神論は説けぬ。よってそれは非神論になる。「芝居-演劇」する私たちは本質でも実存でもナイ。「非存」だ。「どこへいってもどこでもナイし、あっちはどっちや」の旅芸人だ。百億の昼と千億の夜をついやして、なおもその先に往くものだ。 即説呪曰、羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(般若心経、末尾)。

« 如是想解・7 | トップページ | 映画情報『ヒミズ』(園子温、監督) »

北村想のポピュリズム」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/53533284

この記事へのトラックバック一覧です: 如是想解・8:

« 如是想解・7 | トップページ | 映画情報『ヒミズ』(園子温、監督) »