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2011年12月22日 (木)

映画情報『ヒミズ』(園子温、監督)

情況的に、賞賛と祝辞に包まれているこの作品に対して、門外漢の私が失礼なのだが、あえて感想をいってしまえば、終始「出来のよい高校演劇につきあわされた」というふうで、少なからず辟易してしまった。無論、ここでいう「出来のよい」というのはironyに他ならない。構想中に東日本大震災が勃発して、それを急遽、脚本に書き入れたのは、園 子温監督が、ただジタバタしただけに過ぎないように思える。その悲惨さを描写するのに、津波の瓦礫の山と犠牲者の呆然、彷徨を撮ればイイというものではなかろう。それは凡庸に過ぎるのではないか。未だ避難所生活を余儀なくされる被災者多い中、都市部では、食料はあふれ、観光客は深夜の路上で酔っぱらって咆哮していたんだからな。さらにいえば、震災による死者と、通り魔殺人の死者はどうしたって結びつくものではナイ。津波は通り魔ではナイ。自然現象だ。通り魔は自然現象ではナイ。「それは覚悟で」とは監督のインタビューに答えてのコトバだが、表現者の覚悟など、如何程のものでもナイ。表現者である限りは、表現した作品に対しての、それを観るものに対しての覚悟などアタリマエのことではないか。
この作品のドラマツルギーは、いわゆる青春映画なのだが、私は何だか遠く70年代にリターン(もしくはタイムスリップ)したような気になった。演劇の業界では、こういった「作り過ぎのリアリズム」という方法は、もはや過去のものになってしまっている。どのシーンを観ても嘘くさいし、失笑するだけで、まことに申し訳ナイが、涙どころか、あくびしか出てこない。曰く「退屈」・・・。ただ.一つ、でんでん扮するところのヤクザ(金貸し)親分のせりふだけは、真っ当(いいせりふ)だなと感心はした。あれがなければ、主人公が紙袋に入れて持って歩くステンレスの包丁など、素人目にみても、殺傷能力はナイのが焦燥のまま終わってしまうからだ。あの包丁では逆刃にしないと、およそ刺すことは不可能だ。逆刃にしても体当たりしないと無理だろう。匕首の場合でも、殺すという意志のナイ場合は逆刃にはしない。ともかく「刺した」という事実が残ればいいからだ。逆刃の場合は、刺してから上に出来るだけ何度も引き上げる。これが致命傷になる。逆刃でナイ現場に、テキヤのバイト時代には一度遭遇したことがあるが、殺意がナイので、意外にアッサリしたものだった記憶がある。私も、いざという時のためにアキレス腱、手首の筋、耳を削ぐ、頸動脈の辺りを切り裂くのに適当な、掌に隠せるナイフを持ち歩いているが、ヤクザと同じで、相手の攻撃能力を奪うだけで、トドメにはならない。(ヤクザの果たし合いにトドメのしきたりはナイ)。たまに、新聞紙を放り投げ、落ちて来るところをこのナイフで鋭利に切る練習は怠っていないが、それくらいの自衛策は持っている。よって主人公に対しては、早く殺っちまえよ、と、まあ、うんざりとはしていた。(もっともこの辺りは、私と父とのあいだのトラウマが原因かも知れない)。自らの家庭の不幸は放っておいて、主人公に肩入れするヒロインについては、最後に首を吊らせるほうがヨカなったか。それを主人公が観て、普通のボート屋に自立していく。だいたい、警察署などの公権力なんてのは、殆ど信じられるものではナイ。まあ、主役たちが中学生という設定なのだからしょうがナイのだろうけど。しかし、成長と変貌とは根本的に異質のものだ。そこをこの作品はうまく「仕分け」損なったように思える。
ラストシーンの「がんばれ住田」は、もう「がんばろう東日本」「がんばろう東北」「がんばろう仙台」で、聞き飽きている。震災直後、私も因縁あってか(私は震災-津波で知己を二人亡くしている・・・行方不明のままだが)、流山児事務所の公演で、仙台に参じたが、「がんばろう仙台」のポスター、ステッカーを数多みるにつけ、「運が悪かったな仙台」のほうが適切ではナイかと不埒な妄想を抱いた。さらに付け加えるならば、震災中の日本においては、「明日は我が身だ日本」というポスターやステッカーのほうが必要だと思われる。
青春は美しい、のではナイ。青春映画が美しい、だけなのだ。主人公二人は、後者に打ち込んだ。正当だと思う。この二人には、拍手は惜しまない。

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