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2011年12月24日 (土)

如是想解・9

27 『マリヴロンと少女』(宮沢賢治)
『マリヴロンと少女』は宮沢賢治の作品中で、ごく短い、いわば掌編小説だ。私はこれを『マリィヴォロン』という一人芝居の戯曲(「せりふの時代」?号に掲載・舞台は、戸川純さんが演じた)にしたことがあるが、原作の中でワカラナイことがあった。(だいたいこの宮沢賢治というひとはワカラナイことが多すぎるのだが)歌手マリヴロンに一緒についていきたいと懇願する少女を戒めてマリヴロンがいう。「正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです」と、ここまでは納得出来る、ところで、そのすぐアトにコトバはこう続く「ごらんなさい。向こうの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつものです」。その、「あと」と芸術とが同じ高い価値を持つものだと、いうのだが、何故「鳥のあと」なのかがワカラナイ。これは『法華経』の「方便品」をそのまま書いているのだということが、『正法眼蔵』「唯仏与仏」を読んでやっとワカッタ。「唯仏与仏」は、鳥が鳥の跡を観るように、ただ仏のアトをついて来ればよいのだということを説いているのだが、つまり、道元の法華経解釈なのだが、仏でないものは仏の眼をそなえていないので、仏の教えるところを知ることが出来ない。ゆえに、ただ、仏の歩んだ路の跡をたどればよい。ということになる。
『法華経』は、大乗仏教の至高の教典といわれるが、私の読んだ限りでは釈迦-仏陀を極めて神格化しているうえに、かなり排他的、排外的、怨嗟を感じる教典だ。成立がいつ頃なのかは不明だが、仏教学者の岩本裕氏によれば、この教典はかなり他派から迫害された弱小教団の著作ではないかとあって、私もその説にはうなずける。しかし、大乗の教典を道元が、おおく小乗と看做されがちな禅宗のうちにその独特な解釈を以て位置づけているのは、ある意味では画期的なことだろう。釈迦-仏陀を神格化しなくとも、「悟り」を説くことは出来るといったところか。
私は宮沢賢治の『マリヴロンと少女』の芸術観に対しての違和感から『マリィヴォロン』を書いたが、そこには「現実と虚構」というテーマのようなものが横たわっている。主人公に名前はなく、戸川純さん自身に3~4回に分けて、この戯曲は手紙として送られた。舞台では、戸川純が戸川純に扮して、一人で旅回りをする少女の話が描かれる。虚実入り交じっての舞台で、ただ、戸川純のリアリティがそのまま虚構であり現実だった。そのことについて、まったく勘違いしている批評は多くあったが、もちろん、正鵠を射た感想も幾つか目にして(或いは耳にして)いる。私自身はこの劇作法について、もう少し論議があるかと予想していたが、その反応のなさに、いささか逆に私のほうがガッカリしたというのがほんとうのところで、以来、いわゆる業界からは少々距離を置いている。しかしながら、一人芝居というものは、そのひとにしか出来ない芝居のことをいう。と、そういう命題を手にすることが出来たのは幸いだ。戸川純さんには感謝している。

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