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2011年12月13日 (火)

如是想解・4

20  証(あかし)
  道元の禅において一般的に有名なのは「只管打坐(しかんたざ)-ただ坐れ」だが、もう一つ何か挙げろといわれれば「修証一等(しゅうしょういっとう)-修行と証(さとり)は一つのものである」になる。ここで、道元は「さとり」に「証」の字を充てている。これは観落とされがちだが、重要なことに思える。
  たとえば、「愛」や「心」というものに「実態(実体)」は無い。というか、おおよそコトバというものには「実体」は無い。そのものには実体はナイが、示すことは出来る。それが「あかし」だ。「愛のあかし」「正しさのあかし」。そうすると、「さとり」というものは、何か「証(あかし)」を示せればイイということになる。
  能の世阿弥のいう「花」は、まさにその「証」として存在する。世阿弥が禅の思想に強く影響を受けていたことは知られている。世阿弥は為手(シテ)の存在の実体を「花」という「証」として捉えた。花は動かぬ。そこに咲いていればよい。能に殆ど動きが無い、あるいは、決まった動きしかナイのは、そのゆえだ。花の動きは、或いは風に吹かれて、或いは雨にうたれて、或いは陽光に向いて、と、それだけを能は花の動きとして捉える。為手は花ではなくひとだから、その動きは「悲しみ」「恨み」「名残」「追憶」「孤独」「愛憐」というふうな主題を基に変化する。
  逆にいえば、どんなにコトバ(論理、理屈)を並べ立てようと、「証」なきもののいうコトバには、何の価値もナイ。単なる意味の羅列にしか過ぎない。彼の発するコトバに「夢」があったとしても、それは彼の「妄想」と、私たちは解釈して一向に構わない。
  およそ、さとるとは、コトバに「証」を示していくことに他ならない。

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