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2011年12月28日 (水)

如是想解・10

28 演劇と倫理
演劇(芝居)とういものは、べつに学ばなくともイイ。これを楽しむ、つまり一つの享楽として感受する者をとがめる筋合いもなければ、そのすべもナイ。錢とヒマのゆるす限り世間からの逃げ場としてその場で享楽にすればヨシ、そうしてテキトーにさよならして生活の場にもどるもヨシ、恋愛の場に走るもヨシだ。それは演劇(芝居)以外のあらゆる表現に共通のことだ。そこにcynicism(既成の道徳、常識、を冷笑する態度)とnihilismが含まれていることにマチガイはナイ。しかし、それは倫理の固有性の問題にしか過ぎぬ。表現それ自体とは本質を分かつものだ。これを一つの固有の倫理として認めるとしても、表現の価値の規準にはならない。
では、演劇(芝居)の価値とは何か。翻って、私は、その個人の倫理性と深く関係を持つもののような気がする。矛盾するようだが、「規準とはならないが関係はする」というしかナイ。これを道徳観などと勘違いしてもらっては困る。ヤクザにはヤクザの倫理があるのはいうまでもナイ。任侠と義理はその最たるもので、それがなければヤクザ社会というものでは生き抜けなかった。(かつては、そうであった。ヤクザが暴力団というふうになるまでは、ネ)従って、演劇(芝居)にも、ある積極的逃避、あるいは積極的狂気としての倫理が存在する。
この「享楽」と「倫理」のはざまにあって、最後まで苦悩したのが宮沢賢治だ。法華経の「安楽行品」では、求道者が近づいてはいけないものが挙げられているが、ここには「文筆するもの」も含まれる。その他「拳闘」や「相撲」など、およそ見せ物、即ち表現の類には「近づいてはいけない」とある。享楽の危険性を述べたというべきだ。しかし、賢治は最後まで、その和解を求めて闘った。前述した『マリヴロンと少女』などはその例が著しく描かれたものだ。「すべての芸術は一度滅ぶべきだ」と述べたのは、何も自身の作品が認められなかった腹いせの言動ではナイ。『農民芸術論』を夢みたとき、賢治の脳裏には世の改革のためには、芸術(表現)は必要だという確信があったのだ。臨終において、自らの作品群をすべて焼くように遺言したが、これを否定的に捉えるのではなく、肯定的に、「作品ではなく、おのれの生き方自体なのだ」という賢治の姿勢(祈り)として受け止めねばと、私は思う。

29 無常と存在
釈迦の最初の説法は旧知の五人の修行者に対して行われた。ここで、釈迦は「形体のあるもの(色)は本質のないもの(無我)」だと説いた。何故なら「もし、形体のあるものに本質があるのなら、~私のカラダはこうであって欲しい~欲しくない~といえるが、本質が無いので、そうはいえないのだ」と論じた。次に「永遠に存続せず、苦しみであり、常に移り変わるという性質のものを観て~これは私のものだ~とか、~これは私だ~とか、~これは私の本質だ~とはいえない」とした。即ち「私」というものは「無い」(無我)ということになり、状況論としては「無常」だというのだ。これはかなり否定的(もしくは西欧哲学ではnihilism)としての論理だが、「無常」というのはさほど陰々滅々たるものではナイ。これを「あらかじめ、決定されたるものは何もナイ」という命題で捉えてみれば、世界は予定通り動いているのではなく、「明日のことはワカラナイ」という動き方をしているということになる。つまり「予定説」ではナイということだ。「私」のことも「あなた」のことも、たったいまある刹那に消え去って、次の刹那へと続く。常で無いということは、常で在らずと同義だ。常で非ず、だ。「常に在るでなく」「常に無く」でもなく「常に在らざる」としての存在がひとの存在だ。コトバを変えれば「主体」というのは刻々と移り変わる弁証法的な「非在」といってイイ。至極単純にいえば、「私」というのは「私」が「私」と関係して私←↓→私
                 私 だということになる。
無常と存在(私)は敵対するものではナイ。矛盾するので、「非在」として「発展する」と考えたほうが、楽に生きられる。he is not he was.(彼は昔の彼ならず)。他者もまたその如しと考えておけばイイ。

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