無料ブログはココログ

« 如是想解・2 | トップページ | 如是想解・4 »

2011年12月11日 (日)

如是想解・3

17 執着(しゅうじゃく)
   まず、釈迦牟尼は「苦」に執着した。何故、ひとの世が、生きることが、苦しいのかに、彼はこだわったのだ。定説通り(歴史に残されている通り)理解すれば、「快楽」も「苦行」も、その執着を打ち消すことにおいて無意味だった。そこで菩提樹の下に座し、その執着を棄てることをもって、悟りを得た。これを解していえばおよそ、次のようになる。
  ・ひとは何事にも執着することが出来る(してしまうの積極性)。
  ・ひとは何事に対する執着も棄てることが出来る(可能性)。
  ・ひとは執着し、執着しないという理を生きることが出来る(中庸)
  ・何事にも執着しないということは、「執着しないということに執着している」に等しい(疎外)。
  ・よって、執着すべきこと、執着しても仕方なきことを求める(法)。

18 説法
   釈尊の説法が、「八正道」「五蘊」「十二縁起」と、箇条的になっているのは、説法する相手が、バラモンの教義を持っていたゆえ、それに倣うのが都合が良かったからに過ぎない。
   「人生が苦であるのは、ひとに欲望があるからだ」の「欲望」は「執着」と解したほうがワカリヤスイ。種の存続のための「食欲」「性欲」は、それ自体「苦」ではナイ。いいなおせば、「人生が苦であるのは、ひとに欲望に対する執着があるからだ」だ。道元は「生きていくためには飯を食わねばならぬ。しかし、飯に食われてはならぬ(『正法眼蔵』)」と、そのことを述べている。「人(にん)をみて、法を説け」が釈尊の「待機説法」と称されるが、これは演技者を演出する場合に通ずる。beginnerとveteran、そのcharacterとpersonality、それぞれに、演出家がman-to-manで、演出をつけているのと同じようなものだ。
   イエス・キリストの説法も辻説法(当時は、さまざまな派閥の預言者たちが、この方法をとっていた)ゆえに、福音に差異が生ずるのが仕方ないのと同じく、数知れぬある教典が、てんでばらばらなのは、その著作者の如是我聞の異なることに因るゆえのことだ。

19 乞食(こつじき)
  釈迦は何故、宿坊の弟子たちに労働をさせず、乞食をさせたのか。おそらく理由は、 ただ一つ、「布施」というものの体験のためであったと思われる。「布施」という行 為が如何にタイセツなことかを弟子たちは知ることになる。
  西洋の教会は、寄付を募り、さらに教会内でビールやワインの製造をしている。

« 如是想解・2 | トップページ | 如是想解・4 »

北村想のポピュリズム」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/53455102

この記事へのトラックバック一覧です: 如是想解・3:

« 如是想解・2 | トップページ | 如是想解・4 »