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2011年11月17日 (木)

書けるだけでありがたいのだ

もう10年ばかり前の話になるが、大須観音の裏手にある行きつけの中華屋で、(そこは、座って「いつもの」といえば、タンメンと餃子が出てくるだが)やはりタンメンと餃子を食していたとき、居合わせた客が、漫画週刊誌を読みながら、こう亭主に話していたのを聞いたことがある。
客は男で、とうに三十は過ぎているという年頃、ビールを飲みながら「俺は来年から小説家で食っていくことにした」と切り出した。亭主が、ちょっと妙な顔をして、「えっ、それ、どういうこと」と訊ねると、男は「もう、いまの仕事には嫌気がさしてるから、小説家で食うつもりなんだわ」という。亭主が「何か、もう書いたの」と訊くと、「いやまだ書いてないんだけど、トリックはもう考えたんだわ」という。たぶん、ミステリ小説を書くつもりなんだろう。亭主が控えめに「食えていけたらいいね」というと、男は「いや、絶対もう食っていけるんだわ。来年からは小説家だよ、俺は、そう決めたから」と応える。男は酔っぱらっているワケではナイ。精神を病んでいるというふうでもナイ。ただ、一つ、作家になるには、小説を書きさえすればイイと思い込んでいる、その思い込みが、あまりに自然なので、却って奇妙なだけなのだ。男の客が、次の年から作家になれたかどうか、私は知らない。(てな結びでは、あまりにステロタイプだが)
宝くじ一等賞の当たる確率は、天文学的数字だが、必ず当たるひとがいる。アタリマエのことで、当たるひとがいない籤などナイ。もう一つアタリマエなのは、当選者が必ず宝くじを買っているということだ。買わなければ確率もへったくれもナイ。世の中に作家になりたい、なろうとしている、そういうひとは五万といるが、小説というものを書かない限りは、作家にはなれない。思い込みだけではどうしようもナイ。私は幸いにして、劇作家として、また小説も書いたり、エッセーも書いたり、ナンデもカンデモ書いて、筆一本でめしが食えてこれた。艱難辛苦があったのかといえば、あったのかも知れないが、また、後塵に死屍累々たる者があったのか、それもあったろうが、要するに書かなければ物書きではナイということで、これまた幸いにして、私は「書く」ことが「飲む、打つ、買う」のどれよりも好きなもんで、そこからすでに狂っているのだが、自分が狂っていることはよく承知している。いまなお、還暦を前にして、売れるアテなどナイ、(つまり、依頼されたものではナイ)小説を4~5本抱えて書いていて、売り込んでも、いまの不況じゃ無理だろうなあと思いつつ、時折読む、いまの小説程度なら幾らも書けるという、ただそれだけのささやかな希望だけで書いている。もし、うんと若ければ野心も持つだろうが、今更、売れたって、食い扶持が多少増えるだけで、寿命か伸びても3年が10年になる程度だから、もうこれは一人遊び(一人仕事かな)の範疇だ。とはいえ、どんどん壊れていくカラダを考えると、書けるのなら、書いていたいと、書けるというだけで幸いだと、心身滅ぶまでは書きたいと思う。最近は益々「書きたい」とおもうから、独りになってからは、どんどんとただ書いているのだ。食わせていかなければならない家族もナシ、もはやこれは、私より早く逝去した者への供物のようなものだ。

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