『寿歌』プロローグ
シス・カンパニーから、来年1月公演の『寿歌』台本が送られてきた。ひさしぶりに、読み直した。この公演用に、私はプロローグを新しく書き下ろした。キョウコが干し芋を持って、ヤスオのもとに走り、ゲサクが独りで舞台に立つとき、キョウコとヤスオには何があったのかを書いた。理由は、キョウコというのがナンであるのかがやっとワカッタからだ。30余年して、なるほどそうだったか、と納得した。それを付け加えたのだ。読み返してみると、他にも発見があった。この戯曲のワカリニクさは、聖書(福音)のそれとよく似ているということだ。つまり、無意識に私は福音に倣って、この戯曲を書いたようだ。福音がそのコトバのごとく、神の子の誕生を物語っているのとは反対に、『寿歌』は、ついに神と出逢えぬエレジーである。
衣替え、とでもいうのだろうか、衣裳ケースを整理して、冬物を出した。ついでにガスストーブも出した。冬の準備だ。季節には準備が要る。さまざまなものには準備が必要なのだ。準備万端とまではいかなくとも、イイカゲンな準備をしていては、死ぬことも出来ない。話は大きく飛ぶが、現在の中国が、社会資本主義になり、富は増大したが、国土が荒廃したのは、やはり、準備の失敗ではなかったろうか。数年で日本の国民総生産を追い抜くインドも、そうでなければいいがと思う。あのアメリカですら、貧富の格差が拡大し、失業率が高まっている。笑わせるぜ、現代経済学の無力さには。何をどういおうと、ゲーム理論が何だろうと、実際に生活経済が破綻していては、そんなものに何の意味があろう。数理経済学などというものなど、インテリの玩具に過ぎない。
このあいだは血圧が異常に高く、そうすると、毎晩のウイスキーも口にしたくもなくなり、酒を抜いた。カラダは正直だなあと感心した。カラダの求めるように生きればいいのだ。人間は動物でもあるのだから。その動物的な部分を信頼すべきときもあるのだ。
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