『表裏井上ひさし協奏曲』(西館好子)読後感
後半部分に書かれた夫(井上さん)の傷害にも至る暴力を除けば、たいていのことは、何処の家のどの夫婦にもある、似たりよったりのこととしかいいようはナイ。結婚というのは、個人と個人の自由な意思によって出来るが、実際は育った家と家のチガウ者どうしが、家ごと結ばれることだ。だから、平穏を望むのならば、なるたけ似たような環境に育った者どうしがくっついたほうがイイに決まっている。西館さんと井上さんはこの出発点で終焉を潜在的に孕んでいたようだ。
井上さんの暴力沙汰というのも、私自身の幼童期の家庭がそうであったから、特に「裏」の顔をみせられたというふうにも衝撃を受けなかった。ただ、それは、私の幼童期が特殊であったからだけなのかも知れないけれど。
作家が孤独であるとか、孤高であるとか、そんなものはどうでもイイことだと思っている。それはひとの苦しみの中にさえ入らない。釈尊の四苦八苦は、生・老・病・死の四苦に加えて、愛別離苦(あいべつりく)- 愛する者と別離する苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)- 怨み憎んでいる者に会う苦しみ、求不得苦(ぐふとくく)- 求める物が得られない苦しみ、五蘊盛苦(ごうんじょうく)- あらゆる精神的な苦しみで、「孤独」などというものは取り上げていない。せいぜい、最後の付け足しのようにある五蘊盛苦に入れればいいのかなという程度のものだ。私も孤独を苦しいことなどと感じたことは一度もナイ。「孤独はどんな人間にも平等に与えられたものだ」(劇団『青い鳥』の葛西佐紀さんのコトバ)。
ただ、この二人の決定的な間違いは、「演劇」に足を踏み入れたことだ。映画も演劇も、錢の飛び交う業界ともなると、善人などいるワケがナイ。たまにその中に「ふつうのひと」がいるだけだ。私は35年の間、この「悪人」と「ふつうのひと」の往来が可能なように細心の注意を払ってきた。ちょうど「狂気」と「正気」を往来するように。「風通しを良くすること」「閉じないこと」、それは保全のために危うい作業だが、それしか私に出来る方法はなかった。そんなことは、演劇の業界だけではナイ話だろう。どの業界にも地獄、極楽はあるに違いない。ただし、何で食っても五十歩百歩とはいうが、そもそも、「演劇」は「食えない」。
私は「表」の井上さんには恩義がある。私のことを「10年にひとりの才能だ」と、最初に認知して頂き、かつ「この作者は軽くものを書いているふうにみえるが、ほんとうは骨身を削っている」と、おそらく我が事がそうであったことに類推して、私を援護してくださった。この「コトバ」にはいまもって、感謝している。
好子さんは、何をいったって、男をつくったのは不味かった。ここは物書きの井上さん相手には、不利だ。別れるキッカケは何度もあったんだろうから、そこは地獄と思いつつも思い切らないとしょうがナイ。ほんとうの「悪妻」として、逃げりゃよかったんだ。両親と一緒に、錢をうまいことガメて。作家なんて書く事しか能がナイから、幾らでも騙せるんだぜ。(劇作家、さらに演出家は別。こやつらは、作家と違って、狡知に長けているのが多い。おれもテキ屋だからナ)。
まあ、あんまり気分の良くなる本ではなかったナ。夫婦なんてのは、端から観ているよりはるかに複雑怪奇なもんだからナ。
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