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2011年10月20日 (木)

私が臓器移植のドナーにならない理由

論理は何処かに欠陥がある。まったく破綻しているものもあるが、それは当の本人が気付かないでいるだけだ。論理の欠陥というのは、不完全といってもいい。従って発展がある。科学実験の失敗を失敗といわず「ある成果」というように。しかし、人間の身体は違う。欠陥というのか、不完全というのか、それがさだかでナイ。というのも、完全なものがみあたらない、かつナニヲシテ完全というのかが不明だからだ。そういう考え方を「類的人間観」という。私たちの身体は、必ずどこかに障碍を持っている。それが他者の目にみえるものだけを身体障碍というのは、ほんとうは正しくはナイ。脳もまた身体だ。臓器だということにチガイはナイ。この一臓器の欠損、不完全、極めていくと脳死ということによって、ひとの死とすることに私は賛成出来ない。よって、脳死判定による臓器移植にも私は賛同しないので、ドナー提供しない。
脳死判定には幾つかの規準があるが、移植するには、脳が早く死んでくれたほうがイイことはいうまでもナイ。しかし、脳が死ぬということと、その臓器を持ったひとが死ぬということはまったくベツモノだ。脳が死んでも(そういう状態になっても)身体は生きている。だから臓器移植が出来る。脳死患者から移植のための臓器を取り出すとき、手術には全身麻酔を施す。そういう事実を私たち殆どの庶民大衆は知らない。
脳が、そのひとの全人間性を現すという理屈は、私を納得させない。たいていの人間は狂っている。どういうふうに、どの程度狂っているかだけが問題で、いわゆる正常な人間など存在はしない。しかし、精神医学とやらは、狂気というカテゴリーを作り出し、それを正常と区分けしてきた。要注意しなければならないのは、殺人狂か、前科のある精神異常者だけだ。これには人権もクソもナイ。疾病だからだ。しかし、静かに狂っている者、あるいは、脳が欠損して常人のごとく動けない者に至っては、類的に、それでひとつの身体、一人のひとだ。ひとである以上、ココロがある。脳にココロなんざナイことは、脳が最もよく知っている。脳は考えはするが、ココロではナイ。ココロの一部だ。ココロというのはもちろん、身体の外にはナイ。身体全体がココロだ。頭のテッペンから爪先にまで、ココロは行き渡っている。
臓器さへ移植すれば助かるという患者は多く在る。それに対して、臓器移植をしないという者への非難は的外れだ。問題は医学にあるだけだ。生後数カ月で死ぬ者もあれば、胎内で生きて、流産して命を終える者もある。それらの救済も同じ医学の問題だ。脳死を死とすれば、臓器移植待機の者は「お願い、早く死んで」という本音があるはずだ。それを「運があったら何かの縁で移植できるように」というところまで持っていければ、その気概や良しとは思う。
演劇は身体を扱う。類的に扱う。輪郭がヒトのカタチをしていようがいまいが、動けようが動けなくあろうが、その身体が触れるものをして、身体化することを表現として扱う。演劇の身体論の難しさは、演劇の最初から最後までついてまわる。滅多やたらに、ワークショップのゲームごときで、身体とは、てなご託を述べないほうがイイ。

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