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2011年10月16日 (日)

無常の算数

無常というものに始まりがあるならばそれは「無」だ、とはブログに書いた。そこで、簡単な算数をお目にかけると、無常というものは0+1で表現できる。たとえば、いま机の上にエンピツが一本置かれている。私たちはその状態を観て、エンピツが1本ある、と認識するが、本来エンピツは、そこに置かれた1本だから、最初は何もナイ状態、即ち「無」であった。(机の存在は無視する)そこにエンピツが一本、で+1だ。つまり、+1の前には0がなければならない。従って無常を連ねていくと、0+1+1+1・・・(+1)nという簡単な算数になる。無常というのは基本的にはそういうものだ。しかし、日本人は、特有にこれを消極的に受け止めた。つまり成すがまま(曹洞宗・禅)のようにだ。逆に、西欧は実存主義や現象論にみられるように、+1が+2になることも可能である存在として、人間を捉えた。何れが正しいのかは、この自然とひととの関係の絶対性にしか求められない。いくら+2だといおうが、他者が+3だよといい張れば、その何れが正解であるのかは、さまざまな方法をとらねばならない。+2、+3というそれぞれを実存というふうに称してもいいし、固有の信念といってもイイ。それが、即自的なときは、それで問題はナイ。ただ、何れかを決めなければならないとき、実存や固有の信念は意味を成さない。前者をハイデガーの現存在とすれば、後者はフッサールの現象学における「還元」に該る。現存在は+2だといったり+3だといったりする。それぞれがそういう。そこで現象学が、それぞれのいい分を方法論的に棄却する。これを「現象学的還元」という。ところで、私はどうするのか。私には信念などと呼べるご大層なものはナイ。信念は頑迷にしかみえず、実存など、肩をいからすことなど真っ平だ。そこで、無常に従う。ただし私の無常は、途中に-1も含む。それでは、無常の意味がナイというのであれば、この-1は、linear(リニア・直線軸)における-1ではなく、座標における-1であると、解くことにしている。つまり無常は直行する軸の0から始まって座標をもっていく関数でもいいのだ。0→(+1・-1)というふうにだ。
真っ直ぐ生きる必要はナイ。あるときは関数曲線であり、またあるときは、その接線であっても構わない。それが、無常だ。

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