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2011年10月14日 (金)

SLOFT通信・国語の時間・(終)

私たちが無造作に「イメージ image」というとき、というか、このコトバほどいいかげんに使われているコトバもナイ。というか、このコトバほど便利に使われているコトバもナイ。「あのひとってイメージ悪いね」というとき、それはそのひとの「見掛け(概念)」からきている。「見掛け」が、観て抱くココロのなにがしならば、私たちはまずそのひとを観て(視覚、聴覚、嗅覚)認識し、さらにそれをココロで認識するという、いうなれば「イメージ」というのは「認識を認識」してものになる。その作用を認識とえば「認識が認識を認識している」ことになる。例えば数学というのは実体のナイ学問だ。そこにあるのは概念と認識だけだ。いわばイメージだけの世界だ。それを用いる科学も同じだ。だから、原発が壊れるというのは、現実に壊れるまではイメージでしか現せない。アメリカ合衆国の社会通年は「合理的」だと思っている日本人は多いが、実はアメリカ合衆国というのは不合理の国家だ。プロテスタントの神の国だからだ。いくら日本が神道の国だからといって、八百万の神々がほんとうにいると信じているひとはまず、殆どいまい。しかし、合衆国国民の9割はその(神の)存在を信じている。
さて、国語の時間のオワリに、もう一つ、「語りコトバ」の持つ「音像」について他人の褌でさぐっていこう。「音像」は語り語られるコトバから想起される「イメージ(像)」だからだ。
≪内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。≫
「内言」というのは、表に出ない認識や思考の言語過程だと思っておいてイイ。何故ならそれこそがイメージだからだ。演技者がせりふを語るとき、出鱈目に声を出しているワケではナイ。ココロにあるコトバを如何にして伝えたいように伝わるべく伝えるかという思考がある。そうして演技者にやって来る聴音としての音声が切り結ぶ像、観客に届く音声と、そこから再び演技者にもどってくる像。それらはコトバの「連合」つまりつながりとなる。そうしてそれぞれが語っている概念と関係する。「地震で机が横倒しになって、花瓶が割れた」と、これらのせりふは、音声として語られるとき、聞いている側(語っている側にも)鮮烈にか、あるいは漠然としてか、像になる。ここで、重要なのは、聴覚というものが、視覚の心象を代行するということだ。聴くことによって観ることが出来るということだ。例をあげると、いまあなたは部屋にいる。窓の外をオートバイが走っていく。その音を聴覚で捉えて、あなたは視覚的にオートバイや夜の舗道、灯の点る家々をも脳裏に描くことが出来る。著者による音像によるコトバの再規定は、
≪【内言レベルにおける再規定】
・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)
・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)・シーニュ・記号 → 内語 ・言語→ 内言≫
ということになる。「イヌ」という音像でつくられたコトバは、そのイメージを再現されて「犬」という像の概念に結びつく。「私の目の前に男がいました」というせりふは、それぞれのコトバ(私・目・男)が演技者が意識の中に持ったイメージを、自らの実態を通じて一つの固有のイメージに創り出すことだ。
イメージ(image)についてひとこと。演技者はさまざまな役、演技のイメージを持つだろう。スゴイ演技とか、感動させる演技とか、私らしい演技とか。しかし、演技者は欲を出すな。「自分は一輪の花だと思え」かすみ草、リンドウ、薔薇、カーネーション、たんぽぽ、すみれ、れんげ草。ともかく舞台に咲く一輪の花だと思え。役よりも花、それが世阿弥の残した『花伝書』の秘伝、「花」のことだ。

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