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2011年10月18日 (火)

SLOFT通信・相手役との演技者の仕事

親鸞(本願寺派)の親鸞における善悪の考えというのは、以下の如くだ。
悪人 「衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。 阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない極悪人であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。
善人「親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。 また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな極悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。
因果「凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。
ところで、親鸞がほんとうにこういうふうに考えていたのかどうか、そう考えていなくとも、人を悪人にすることは出来る。たとえば、親鸞が「性善説」を持ったとする。(実は私もそういう傾向なのだが)そこに私などは「人間のやることなすことは全て悪を含む」という命題を立てる。とすると、悪を含んだ善などは有り得ない。集合論として考えても、集合Nという「善」の部分集合Sが「悪」であれば、集合Nは「善」とはいえぬ。よって「善」でなければ即ち「悪」だ。親鸞の教義を信ずるということは、とりもなおさず、自身が悪人であるという自覚を持つということがイチバンにある。このへんにくると、真宗も大谷派の傾向になる。つまり、やや知識人よりの教義になる。「わしは悪人などではナイ」という武士たちに対して説かれる教義だ。似たことを西欧に求めると、キェルケゴールは世界の絶望を受け止め、「絶望を知らぬことこそがほんとうの絶望だ」という、有名な「絶望の絶望」を説いた。この論理でいえば、「悪を知らぬ者こそが悪」だ。何故、悪に無知なのかと問い直せば、即自的な信念が、対他的にも通用するというドクサ (doxa、プラトンが、イデアによる知識であるエピステーメーに対し、一段下の感覚による知識(根拠のない主観的信念)をさして呼んだ語。臆見(おっけん)。「思い込み」として現象学ではフッサールも用いている)に陥いっている自らに疑いを持たないという陥り方、の二重の隔壁の中にあるからだ。つまり、「自らの信念に根拠在り」という信念を疑わぬということだ。これは信念の信念だ。しかし「関係」は、かくなる信念を優先して、存在する。従って、演技者は自身の演技への信頼より、相手役との関係を重視しなくてはならない。「あなたのような下手とはやってられない」というのは、エライ女優さんが、新人女優に対してよくいうことらしい。もちろん、もっとエライ女優は、そこで、相手を指導するし、さらにもっとエライ女優になると、その新人女優に合わせながら、自らの演技を調整していく。絶対などというものはナイ。相手役と向かい合ったとき、自らも相対であるのだという自覚は、放棄してはならない。

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