無料ブログはココログ

« ここんとこ | トップページ | SLOFT通信・国語の時間・(終) »

2011年10月13日 (木)

SLOFT通信・国語の授業・4

≪「シニフィエ」→語概念あるいは語義:シニフィエは具体的な語の表わす意義であり、それは個別的な事物や現象・関係などから抽象された普遍的・一般的な概念として認識されている。≫
簡単にいってしまえば私たちはそれをコトバの「意味」というふうに称している。ここには深い含みはナイ。~あいつの行動には、何か意味があるのではナイか~などの「意味」というものではナイ。「水というのは酸素と水素の化合物である」という程度の意味だ。この褌で演技をかんがえるとすれば、戯曲に「電柱」とあれば「でんしんばしら」のことであり、「机」とあれば「desk」のことだ。戯曲のコトバにそれ以上ナニカあるのかというと、それ以上のものがあるから、戯曲なのだ。とはいえ演技者は、まずこの「意味」によって何が書かれているのか、事物や事象を知ることになる。
≪「シーニュ・記号」→語規範ないし語観念:社会の構成員がその意識内に形成した一つ一つの語についての規範認識であり、それは語の音韻とその語の表わす意義(普遍概念)とが結合した概念的な認識である。≫
私のような関西生まれのものは、「おまんこ」と聞いても、何らこそばゆい、恥ずかしいことはナイ。何故なら、女性性器、あるいは性行為は「おめこ」だからだ。「全国共通おこめ券」というのが米屋の店頭に張り出されたときは、ドキッとしたものだ。ちょうど、「ひつまぶし」を「ひまつぶし」と読み違えるようなものだ。NHKの子供番組で『アッポシマシマグー』というのが始まったとき、ある地方から苦情が出て、タイトルが変更になった。その地方では「アッポ」というのは性器、もしくは性行為のことで、「シマシマグー」になると「しましょう」に該るからだ。プロレスのボボ・ブラジルも、地方によっては、ポポ・ブラジルと名前を変えた。「ボボ」が性器、性行為に該るからだ。つまり、規範というのは各地で変わる。共通規範というのは、その共同体で変化する。ウィトゲンシュタインが、ついには、言語ゲームを共同体の領域に収めなければならなかったのは、そのためだ。この褌において演技者は、「コンテクストを摺り合わせる」べきか。べきもへったくれも、それは不可能なのだ。生まれも育ちも違うんだから。なまじっか標準語の世界に沈むより、ここでは、他者(対する演技者)との規範のチガイを吟味すべきだ。つまり、誰もが自分と同じように戯曲を台本化してはいないということを、認識すべきだ。この場合のコトバは先程の「意味」に対しては、固有の「価値」として表出される。ひとりの人間には、ひとつの固有の「価値」があるのだ。その表現は、「意味」に対して「価値」として成されねばならない。演技者は単にせりふを読み、語っているのではナイ。そこにその演技者の≪意識内に形成した一つの語≫としての表出があり、それがせりふとして表現される。戯曲をどう読むか(どう台本化するか)には固有性が存在する。その固有性と、「意味」との状態ベクトルがひとつのせりふとなる。かくして、
≪「言語」→語彙規範:ソシュールの規定した「言語」は語規範の体系としてつまり語彙の規範として社会の構成員に認識されている規範認識である。語彙規範は言語規範の一部を構成している。≫
著者の褌に従っていえば、戯曲は「書かれた劇」としての言語規範として、台本化以前のすべての「言語」を担っていることになる。

« ここんとこ | トップページ | SLOFT通信・国語の時間・(終) »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/52979961

この記事へのトラックバック一覧です: SLOFT通信・国語の授業・4:

« ここんとこ | トップページ | SLOFT通信・国語の時間・(終) »