SLOFT通信・放課後
北海道演劇財団のYさんは、私のホンを読んで「こいつ巫山戯(フザケ)けてんじゃないのか」と思ったそうだが、それは状態ベクトル(シュレディンガーの発想。量子力学のベクトルの状態。波の重ね合わせと理解するとワカリヤスイ。量子力学においては、対象の状態を現すのに適している)としては、的を射たものだ。つまりは、私の作品の波動のひとつだと思えばイイ。「巫山」というのは、中国の山々のさまざまな呼称で、楚の伝説によると、ここで美しい姫君と戯れていると、アトでそれが夢だったとワカル、とまあ、ありふれた説話なのだが、戯曲というものが、日記文学と説話文学の波の重ね合わせだと考えれば、説話なんぞは殆どがフザケているともいえる。
たとえば、北風と、その寒さに震えるひとを描くには、北風が吹かねばならない。しかし、北風が吹くことと、寒さに震えるひとはベツモノだ。北風はひとを寒さに震えさせるために吹くワケではなく、ただ、吹いているだけで、たまたまある人間と関係しているに過ぎない。その寒さに震えようが、耐えようが、泣こうが、立ち向かおうが、北風の知ったこっちゃナイのだ。これをこじつけると、西欧(ドイツ観念論)哲学ではカントの悟性というものになり、弁証法に発展するが、仏教哲学になると、釈迦の悟り(因果)となる。
生きていることを実感するには、北風の吹かれることもひとつの方法だ。「この寒さ、この寒さに私はっ」とリキんでもヨシ、「えろう寒うおまんな」と襟を立てても構わない。もちろん、そのアトで熱い風呂に入り、「うーん、ええ湯だなあ、カラダの芯まであったまる」と思うのも実感には違いないだろう。北風に対してええカッコしてみせるのも演技ではあるが、北風に対しての「みっともなさ」がカッコよくみえる、という演技もまた存在する。何れにせよ、生きていることの実感というものには、北風は無関心だ。とはいえ北風の吹かぬところに生きている実感というものはナイ。そういう北風を好んで書くところが、巫山戯けていると思ってもらって、当たらずとも遠くはナイ。
スラムアパートの冬は寒そうだ。本日は平均気温が外気で23度のところ、室内ですら21度しかナイ。朝、風を通すのに窓と表のドアを開けると、一週間前までTシャツ1枚でよかったのが、下にランニングシャツを着て、上にシャツを着ることになる。次の稽古は寒さの中で行われるのか、『夕月』は暑かったのになあ、と、吹き抜ける風を観ている。
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