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2011年10月 9日 (日)

SLOFT通信・国語の授業・3

再々述べることになるが、戯曲自体を演劇のプロセスだと思っているアホ(な演出家や演技者やモロモロ)が未だに多い。戯曲自体は「書かれた劇」という種類の文学だ。それに対して舞台で演じられるのは「演じられる劇」という表現だ。もちろん、双方は密接な関係にある。従って、「台本化」という過程を(アホたちに理解、納得させるために)導入せざるを得なかった。この過程を説明していくのには、「話し言葉」を重視するソシュール言語学という他人の褌を締めるほうがワカリヤスイ。何故なら、戯曲のコトバはせりふとして「語られる」からだ。ということで、国語の授業を続けると、
≪シニフィアン  → 語韻≫・・・これは語られるコトバの抑揚も含む。韻だから、節があるのだ。例えば、浪花節、坊主のお経もそうだ。経文を読めばワカルが、漢字の横に抑揚の記号が記されている。それは、狂言の稽古本と同じだ。語韻を、intonationの他にアクセント、音調、口調、減り張りなどを含む、いわば音声の波動として理解してみる。劇において戯曲は「黙読」出来るが(これについてはアトで再度記す)、私の場合、演劇のせりふとして語られるコトバの抑揚(intonation)は避けるようにしている。演技者が演技を感情の抑揚によって現そうとする傾向があるからだ。現すべきは感情ではなく、「心情」にしてもらいたい。さらにその理由はと問われれば、舞台で怒鳴るような芝居がキライだからに過ぎない(ということにしておく)。アクセントは同じコトバの不都合がある場合(箸と橋と端、雨と飴と編め、などの場合)以外はあまり拘らない。これについて、逸話をひとつ挟むと、ある老舗の劇団の中堅で(いまは辞めてしまったが、将来を嘱望されていた地位にあった)私のホンにも出演したことのある、屈託のない女優さんがいたのだが、あるとき、そのひとに会って、お茶をすると、突然、お故郷(くに)コトバで会話を始めたのだびっくりして、理由を訊くと、あまりに舞台の上、稽古で標準語とやらをばかり使うので、それに疲れてしまって、日常は故郷(くに)のアクセントで喋るようにしたのだそうだ。この「疲れてしまって」というのは、深くココロに残った。
音調(tone)については、これは、ひとりで何種類もの楽器を使わないようにすること。つまり、guitarならギター、violinならバイオリン、pianoならピアノと、持ち分を決めたほうがイイ。ここで音韻による韻を口調と減り張りでcontrolする。つまり、爪弾くのか掻き鳴らすのか、というふうにだ。語韻は、あくまで音韻であるから、先の女優のごとく、子供の頃から耳で聞いて育ったという身体性と関係してくる。これは、アトで述べる音像という概念と関係があるのだが、私の場合は、「観音せよ」と指示している。観音様とはちょいとチガウのだが、要するに「音を観る」という作業だ。シニフィアン(語韻)というとき、コトバは、発する者(演技者)の身体を捉える。音声(せりふ)を発した自らの身体を、「せりふを発した身体」として捉える。これは、戯曲をただ読んだときに捉えた表象としての身体とは、チガウものだ。この捉え方を演技者による「台本化」という。
褌を借りた著者の規定を記しておく。

≪「シニフィアン」→語韻:音韻は具体的な言語音から抽出され概念的に把握された音声である。したがってシニフィアンは現実的な語音から抽出された音韻、つまり語韻であると規定できる≫。

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