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2011年10月 7日 (金)

SLOFT通信・国語の授業・1

他人の褌で如何にして相撲をとるか、その実践例をやってみよう。ついこの前、ヒジョーに貴重かつ重要かつ興味ある、オモシロソウなウェブをみつけて「お気に入り」バーに加えておいた。そこは、三浦つとむさんや時枝誠記さんの言語論をもとにした、『ことば、その周辺』てとこなんだけど、そこの褌を絞めて、土俵に立ってみよう。
まず、ソシュール言語学に対して誰もが(ってことはナイか、私が、だ)苛つくことに対して、やっぱり苛ついているひとがいるということなんだが、その筆者はこう始める。
≪「言語langue」や「記号signe」(=「シーニュ」)、あるいは「シニフィアンsignifiant」・「シニフィエsignifie」という言葉はいずれも人間の意識の中に存在するものの名称である。しかし原語(フランス語)をそのまま日本語で表記すると、それらはいずれも現実に表現された現実的な、「言語」「記号」「意味するもの」(能記=記号の音声)「意味されるもの」(所記=記号の意味)となってしまう。≫ ・・・これこれ、これでんがな。私はソシュール関係の本を読むたびに(注意しておくが、ソシュール自身には著作はナイ。つまり、『言語学講義』という講義を集めたものが残ってこといるだけだ)。ここんところで、躓くというよりも隔靴掻痒になった。「意味するもの」を何故「能記」という奇妙な単語で訳すのか。どうように「所記」もそうだ。ここで注意しておきますがね、「能記」は記号の「音声」なのに、「諸記」はその「意味」なのだ。では、書かれた言語は何処いっちゃうのか。それについて言及されている部分もあるが、要するに、ソシュールはあまり(いわゆるラングとパロールほどには)重要視はしていなかったようだ。さて、通俗的(新書によくあるような)ソシュールの言語学解釈は、ここではすっ飛ばす。筆者は続ける。
≪「言語」「記号」という表記には別の問題がある。「言語」は言語規範の一つである語彙の規範であって、言語そのものとは異なる。これは不適切な表記といわざるをえない。また語(表現された言葉)は記号の一種ではあるが、語と記号とは違う。したがって「認識された語」を「記号」とするのはこれも不適切な表記である。要するにソシュールによって規定されたこれらの用語はいずれも名が体を表わしていないどころか「名が他の体を表わしている」のである。その上、「シニフィアン」・「シニフィエ」などはフランス語をそのまま用いることが広く行われていて、普通の日本人にはきわめて分かりにくい≫
この一文こそがワカリニクイと、ふくれっ面をするのじゃありません。「言語規範の一つの語彙の規範であって」とかが、ワカランのは無理もナイ。これは、アトで解説するが、要するに言語規範というのはシステム全体、語彙というのはコトバ一つの概念くらいに読んでおけばイイ。
≪「シニフィアン」→語韻:音韻は具体的な言語音から抽出され、概念的に把握された音声である。したがってシニフィアンは現実的な語音から抽出された音韻、つまり語韻であると規定できる≫
ここではソシュールが「シニフィアン」と称しているものが、音韻(音声)だ、と読みとっておけばイイ。ちなみに、音韻の韻というのは「ひびき」のことだ。転じて韻律というふうに「風流」「おもむき」「聞かせどころ」というふうにも私たちは理解している。いい換えれば、浪花節の「節」だ。ところで、演技におけるせりふを、戯曲から台本化するとき、つまり演ずる劇にする場合、この音律を「抑揚(intonation」だと勘違いしている演技者がいるのだ。

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