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2011年10月29日 (土)

義理と人情の秤(はかり)

ワカリヤスクいうと、会っていてイヤな者と会って頭を下げねばならない、こういうのを「義理」という。逢いたい者にあって、手を差し出す、これを「人情」という。「義理がすたればこの世は闇」かも知れない。「義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界」かも知れない。しかし、本来は「義理」とは「恩」あるひとに従うということだ。「人情」とは、道端で倒れているひとを観たら、声をかけ、抱き起こすということだ。この義理と人情が(ここでは日本語になっているが、そういう精神は何処の国、欧米にもある)。人類の歴史のどの辺りで生じたのかというと、穴居人として生活というものを始めた頃からは、もうあったと推定される。学問的根拠はナイが、義理も人情も「生活」するところから始まる行為だからだ。たしかに穴居人には、いまの私たちのような知識や学問はなかった。そりゃあ、アタリマエだ。しかし、逆にいえば、私たちとはチガウ知識や学問があったともいえる。いまの私たちには、当時と同じように穴居する知識はナイが、獣を射たり罠にかけて、食料とする方法も殆ど、その頃の方法と変わってはいない。硬質の石を、より硬質の石で削って、矢尻にするとういう技術も変化はナイ(いまはたいてい人工ダイアモンドを用いて、研磨するが、要するに硬いもので硬いものを削るという本質に変化はナイ)。さらにいえば、穴居洞窟に観られる壁画の芸術性は、いまの芸術作品に引けをとらない。また、いわゆる大脳化(大臼歯の退化による脳の発達)によってもたらせた音声は、唸りや叫びや、何気ない声のリズムから歌を生み出したに違いない。木を叩き、石を打ち、音を出す。貝を擦り合わせて音を出す。それらの結合は音楽も生み出す。それだけの感性もあった穴居人に、いまでいう義理や人情がなかったとは、そちらのほうが信じにくい。
いまにおいて「義理」は、やりたくもナイことを、立場上やらねばならぬことになる。これはよく「責任」「責務」と置き換えられる。夏目漱石の『草枕』冒頭は有名だが、「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」の「意地を通せば」という部分を「義理を通せば」と勘違いして覚えている御仁は多い。多いのは、「意地」と「義理」には同義的なものがあるのと、実生活において、そういう経験があるからだ。たしかに「責任」や「責務」を成そうとするのは窮屈には違いない。鬱陶しいことだ。とはいえ、意地でも何でも、やらねばならない「義理」という責任や責務はあるのだ。それが、個人的、固有のことであれば好きなようにするがいいのだが、義理というのは、関係の上で発生するものだ。固有の主義主張とは、関係がナイ。だから秤にかけたら人情より重いと歌われているのだ。
その義理も、昨今は、Valentine Dayとかの「義理チョコ」程度になってしまった感がある。そのようなものは、私もたくさん貰った経験はあるが、あいにく、私はchocolateは苦手なので、たいていは、右から左になる。しかし、義理を右から左にしたことはナイ。とはいえ人情を軽んじたこともナイ。要するに秤のバランスをどういう具合に調整するかという、そこに、いまの世間がある。

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