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2011年10月 8日 (土)

SLOFT通信・国語の授業・2

「抑揚」をつける、かつてはそういう台詞回しの芝居のことを「紋切り型」としてモスクワかぶれインテリが批判したそうだ。かといって、現実こそが劇的であると、いっとき流行った「等身大」というふうに称された同様の演技をみせるのが、現代演劇批判とばかりに、プチナチズムやプチファシズムふうに、ナショナリズムを声高に、現実に潜む(らしい)劇的(とかいうもの)を演じてみせるというのも当世らしいが、あたしゃ、そのいいぶんを聞くと、いつも高橋鐵センセイの日本生活心理学会(ほんとは性生活だったらしいが認可されなかったらしい)に入会しようとした与謝野鉄幹が、申し込みのアンケートにあった「いままで行った最も変態的行為は」という質問に対して「妻の与謝野晶子の膣に一晩バナナを突っ込んでおいて、朝、それを食べた」と答えたのに、高橋に「そんなアタリマエに誰でもやってることを書くな」と一喝された逸話を思い出す。では、現実にある劇的とは何だ。というのは、ひとまずおいとえてえ。
私たちがともかく言語と向かい合うのは戯曲という「書かれた劇」とそれを音声化(台本化)する「演じられる劇」であり、まず私たちは戯曲を脚本として手にする。そのとき、
≪「シニフィエ」→語概念あるいは語義:シニフィエは具体的な語の表わす意義であり、それは個別的な事物や現象・関係などから抽象された普遍的・一般的な概念として認識されている≫・・・難しそうだが、要するに、演技者は、戯曲(脚本)に書かれたコトバをある「意味」を持つコトバとして読んでいる、とただこれだけのことだ。
≪「シーニュ・記号」→語規範ないし語観念:社会の構成員がその意識内に形成した一つ一つの語についての規範認識であり、それは語の音韻とその語の表わす意義(普遍概念)とが結合した概念的な認識である≫・・・これは音声として現す(せりふ)のことだと思えばイイ。つまり「イヌ」というとき、たいていの世間の人々は「犬」だとワカッテいるので、「イヌ」と声に出していえば「犬」だと理解してくれる。「イヌ」は「犬」だということをいっているワケだ。このとき、音韻として「い~~ぬ」といおうと、「いぬっ」といおうと、「イヌぅ」といおうと、それが「へぬ」にならない限りはまず、たいていは「犬」なのだ。(ただし、ここが「表現」としてやっかいなところだが、犬を示して・・・お前のような駄犬はイヌじゃなくてへぬだ・・・とやれなくもナイのだ)。
≪「言語」→語彙規範:ソシュールの規定した「言語」は語規範の体系としてつまり語彙の規範として社会の構成員に認識されている規範認識である。語彙規範は言語規範の一部を構成している≫・・・語彙というのは例えば先程の例でいえば「イヌ」が「犬」であって、「ネコ」は「猫」だということだが、これはコトバの一つだ。これに対して「言語」というのは、それらの文節、文章として初めて成立する、てなことをいっているのだが、これは、戯曲からそれを台本化する場合、つまり書かれた劇から演じられる劇に移行するときにどういうことになるかというと、ソシュールの規定からこの著者の規定へのいい替えをみるとワカリヤスイ。それは、次の授業時間にまわす。

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