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2011年9月29日 (木)

SLOFT・幕間の授業

カラオケに行く。楽しかった。飲み会をやる。ああオモシロカッタ。これらは主に憂さ晴らしだ。憂さ晴らしである限りは、憂さを晴らせば、次にまたカラオケや飲み会に行くときまで、自分がどんな憂さを晴らしたか、覚えておく必要はナイ。ただ、「憂さ晴らし」では「憂さ晴らし」が出来るという経験則をだけ覚えておけばイイ。
およそ「技芸」は違う。たとえそれが趣味の範囲であろうとも、必然的に「上達」を欲するのは、それが技芸の持つ「悦び」であり、ある目標、目的に達するというのは「充足」だからだ。オヤジたちが、ゴルフのスコアに熱心になるのもそのためだ。少年たちがボードの技に熱心のあまり、ご近所と騒音トラブルを巻き起こすのも、それが原因だ。もちろん、茶道や華道においても同じことだ。「下手でもいいの楽しければ」というコトバは、こと技芸においては、通用しない。何故なら「下手では楽しくナイ」からだ。従って、何故、上手くなりたいかという理由、疑問に対する答は単純明快なものだ。「そのほうが楽しい」からだ。
演劇(演じられる劇)の持つ楽しさ、悦びは、演技が上達するということだけには依らない。私たちは私「自身」の身体(カラダ)を殆ど知らずにいる。それで生活は足りるからだ。しかし、表現に身体(カラダ)が移行すると、「えっ、これが私っ」という発見と驚きがやって来る。「これが私の声っ」「これが私の手っ」「これが私の足っ」「これが私の心臓っ」と驚きに枚挙は尽きない。(関西の劇団『態変』を観てみるとイイ。五体不満足なものが、運ばれるようにして舞台に[置かれる]。だが、ここにも「観る-観られる」の関係が成り立つとき、如何に演技者が自身を昇華していくのかに、震撼せずにはいられない。彼ら演技者は、ナニを発見するのか。私たちはナニを観ているのか)。
一足飛びに、量子力学から演技を考察する。量子力学のたてた設問のコトバを置換すればそれですむ。
・物理量(演技)と状態(situation)という概念に物理的(身体的)な意味があるのだろうか。
・このような物理量(演技)と状態(situation)が存在するといえるだろうか。
・対象(ココロ)が物理量(演技)を持つといえるだろうか。
・測定値(表現)は、観測(客観)が作り出しているのではないのか。
・だとすれば、物理量(演技)も観測(客観)が作り出しているのではないか。
・だとすれば、対象(ココロ)の存在自体も観測(客観)が作り出しているのではないだろうか。
(物理量とは、物質の持つ位置、速さ、方向をいう。状態とはそれが、現在どのようになっているのかということになる)
このようなことを、これほど難しくはナイが、常に演技者は潜在的に所有する。それは生身の生理であるといってもいいし、自然的だといってもイイ。
要するに、演劇(演じられる劇)は、カラオケや飲み会の憂さ晴らしではナイ、というのではなく、そうは「本質的になり得ない」のだ。

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