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2011年9月22日 (木)

SLOFT通信・36

あんまり学がナイので、大きなことはいえないが、エクリチュール(書かれたコトバ)に対しては、ポスト構造主義の旗手でもあった、ジャック・デリダほどには憂慮していないのだ。何故なら、単純に戯曲というのは「語られる(パロール)ため」に書かれたもの、エクリチュールであるから、のっけから、デ・コンストラクション(脱構築)していると解釈しているからだ。それがいくら固有にズレていっても、演じられる劇においては、問題になるのは、演技者のコトバ(せりふ)の表現だけだからだ。私たちにとっては音声言語(パロール)も書きコトバ(エクリチュール)も、そこにおいてのみの葛藤と苦吟であって、いってしまえば、おんなじなのだ。従って、私たちはパロールかエクリチュールかという二項対立よりも、「誰が」そのコトバを「如何に」発するかを問題にするというワケで、コトはアリストテレスからプラトンまで一気に飛んでしまう。プラトンによれば、物事を善悪で分けようとするならば、物事より前に善悪それ自体が存在しなければならない。これをイデアというが、それは実体を持たないから、問題はアリストテレスの、材料(素材)という概念になる。素材は実体だから面倒なのだ。というのも、演技者というのは素材という実態で、これをイメージ化しようと、虚構化しようと、そもそもそこに身体と精神として存在するのだから、いわば背丈をもう10㎝伸ばしてくれ(くらいは靴でなんとかなるだろうけど)、背中に羽根を生やして天使のように飛んでくれ、とは、いえないのだ。
この間、女1・2・3・4の素材(実態)と向き合ってきて、その固有の演技者に、どのような演出(mission)を向けるのが適切であるのか、それはまさにアリストテレス哲学との闘いだった。ところが、ひょんなことから、とある打ち合わせで、私の戯曲を仕事の上で幾つか読んだ演劇関係者から「北村想を最初読んだときは、コイツ巫山戯てんじゃないのか、と思いました。でも別役実さんを読んだときもそう思いましたけど」と、(たぶん、唐さんの戯曲を読んだって彼はそう思うに違いないのだが)まさに、私の戯曲の本質を突いたコトバを聞いて、そうそう、私の戯曲はフザケてんだよなあ(演出も)。と、妙に得心して、本日のrehearsalは、その本質によってみんごとアリストテレス哲学の素材(実態)優先を破砕してやってみた。たぶん、正解だと思う。
公演途中で、演出を変えるということはしないのだが、これがSLOFTではやれることなんだろうと思う。演技者も、私のかくなる演出によく付いてきてくれるよ。

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